この記事の連載

 2024年1月に上梓された井上荒野さんの短編集『錠剤F』(集英社)と『ホットプレートと震度四』(淡交社)。不穏な空気が漂う「黒荒野」作品『錠剤F』と、温かな物語が詰まった「白荒野」作品の『ホットプレートと震度四』という対極の2冊について、そして長野での井上さんの暮らしや創作意欲を伺いました。

インタビュー【前篇】を読む


長野に引っ越して感じた小説の変化

――東京から長野に引っ越してから、小説に変化はありましたか。

井上 あまりないのですけど、長野の風景は小説に出てくるようになりました。ずっと東京で暮らしていたから、東京の街並みしか書けなかったんですよね。舞台が広がった感じはします。

 一度だけ、現地へ行かずにGoogle マップで写真を見ながらパリを舞台にした小説を書いたけど、風景はディティールにつながるので、知っている場所を書くのが一番ですね。

――書籍『錠剤F』に収載されている「ケータリング」はまさに長野が舞台ですね。東京の三鷹でレストランを営んでいた夫婦が、八ヶ岳で新しく店を始めるというストーリーです。

井上 そうですね。私が住んでいるところは別荘地なので、ご近所づきあいはほぼ東京と同じ感覚です。でも、地元の人が代々住んでいるような集落だとそうはいかなくて、移住してきたけれど田舎の人間関係が合わなくて奥さんだけ帰る、というケースは耳にします。そういうお話から始まった小説です。

「知られざる夫の一面」を描いた「刺繍の本棚」

――長野には夫婦でお住まいで、パートナーの須賀典夫さんは古書店主でいらっしゃいますが、『錠剤F』の「刺繍の本棚」にはまさしく古本屋を営む夫が登場します。長年連れ添った夫婦なのに、夫には妻も知らない秘密があった、というストーリーです。

井上 私の考えとして、「家族でいても、夫や妻のことを100パーセント理解できることはない」と思っているんです。結婚して25年くらい経ちますけど、「夫が私の知らないところで人を殺していたら、どう思うだろう」という考えから生まれた話なんです。

――典夫さんは「刺繍の本棚」をお読みになりましたか?

井上 読んでいましたよ。私が執筆したものは全部読んでくれます。

――どんな感想をおっしゃっていましたか?

井上 小説に関しては、絶対に褒めてくれるんです。「さすがだね」とか「よく思いつくね」とかそういうことを言ってくれます。そういうところは父の井上光晴と同じで、褒めないと私が小説を書くのをやめると思っているのかもしれませんね。

――典夫さんには、小説の設定を考える時に相談することもあるそうですね。

井上 私は会社勤めをしたことがないので職業に疎くて、作家と編集者と古本屋のことしかわからないんです。夫はいろんな職業を経験している人なので相談するといい意見がもらえたりするんですよね。主に長編の時なんかに尋ねるんですけど。

 『錠剤F』の「ぴぴぴーズ」を考えていた時にも相談しましたね。コンビニの従業員の男の子が、働いている時に「あなたの子種がほしい」と声をかけられるんです。それで、もし「子種が欲しい」って頼まれたら、引き受ける?」って尋ねました。知り合いの男性編集者は「絶対引き受けない」って答えだったんですけど、うちの夫は引き受けるって(笑)。

2024.02.12(月)
文=ゆきどっぐ
撮影=山元茂樹/文藝春秋