河﨑 イメージとしては、怖い存在ですね。私が育った町は熊の被害こそない地域でしたが、畑の脇の森に入れば熊の糞があるのが普通でした。一度、散歩に出たら200mくらい先の道路に大きな黒い犬がいるなと思ったら熊だったこともあります。夏場だったので痩せていたんですが。
熊に対しては、どうしても農業寄りの見方をしてしまいます。たとえば大事に育てた家畜やデントコーン(家畜の飼料となるトウモロコシ)が襲われたら、それは一瞬で憎しみに変わり、駆除すべきだと思います。同時に、野生動物は向こうから何もしてこない限りは別に駆除する必要はないとも思っています。私にとって熊は、そうした二面性の上で像を結んでいる生き物ですね。もちろん、クマ牧場に行けば「可愛いな」とも思います。
動物のことを野生動物だとか家畜だとかペットだとか線引きをするのは人間のエゴかなとも思うんですけれど、その境目を曖昧にしてしまうとお互いの棲みわけによくないな、とも感じています。
様々な「境目」を描く
――今、境目という言葉がありましたが、『ともぐい』はまさに境目を描いた小説だなと思いました。自然と人間社会の境目、動物と人間の境目、そして時代の境目。執筆の際、そうした境界のイメージは意識されていたのでしょうか。
河﨑 そうですね。境目というのは結局、差異になりますよね。生き物と人間の差異、山の中で生きることと街の中で生きることの差異、男と女の差異。その差異をめぐって、何かを押しつけられたり、拒絶したりされたりして葛藤が生まれる。それは場合によっては血を伴う戦いにもなりうる、ということは考えていました。
――ああ、本作には男と女の境目というモチーフもありますね。白糠の商店に引き取られた少女、陽子という存在が強烈でした。彼女は人間社会の中で虐げられてきた存在でもありますね。
河﨑 いろんな意味で熊爪とほぼ対極ですよね。種族は同じ人間ですが、生き物のオスとメスという意味でも違いますし。境目が強調されるものと境目を失うものとのメリハリをつけるという意図もありました。
2024.02.07(水)
文=瀧井朝世