肌身離さず身につけていた一枚の名刺

 日本が復興から高度成長へ転換する1950年代後半から、笠置は次第に歌わなくなった。40代を迎え、肉体的な衰えがくる前の全盛期で身を引いたのである。1970年前後に懐メロブームが起こり、もう一度歌ってほしいというオファーが寄せられても、笠置は二度とマイクの前に立たなかった。娘のヱイ子によれば、自分の歌は鼻歌ですら歌わなかったという。笠置は再び人前で歌うことなく、1985年に70歳で亡くなった。

 笠置は一枚の名刺を肌身離さず身につけていた。親しい人にはそれを見せ、「夫が初めて会ったときにくれたの」と照れたという。笠置の心には、いつまでも美青年の頴右が生き続けていたのである。

◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2024年の論点100』に掲載されています。

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2024.01.24(水)
文=笹山敬輔