せいは息子の恋を許さなかった。それでも頴右と笠置は時間をかけて周囲の環境を整えていくつもりだった。頴右は終戦からまもなく、大学を中退して吉本に入社している。早く一人前になり、母に結婚を認めてもらうためだ。また、再び歌手として仕事が増えていた笠置も、結婚を機に歌手を引退する決意だった。

夫の死後、娘を一人で育てることを決意

 だが、頴右の病気がすべての計画を狂わせた。頴右は大阪で療養生活を送るものの、持病の肺病が急速に悪化していく。一方、笠置は妊娠が発覚し、東京で身重のまま最後の舞台に上がった。千秋楽を終え、すぐにでも大阪に駆けつけたいが、出産予定日が迫っていて身動きがとれない。笠置は頴右からの手紙を床の間に飾り、瞑目してひたすら祈り続けた。

 1947年5月19日、頴右は息を引き取った。笠置が女の子を産んだのは、それから13日後である。その子は遺言で「ヱイ子」と名付けられた。このとき、吉本家がヱイ子を引き取る話もあったようだが、笠置が自分で育てると決めた。後知恵でいえば、その判断は正しかったのだろう。3年後にせいが亡くなり、吉本興業の実権は実弟の林正之助が握ったが、その後、吉本家と林家で諍(いさか)いが起きた。後見人のいないヱイ子が吉本姓を名乗っていれば、そこに巻き込まれていた可能性がある。

 

生きる希望を与えた「復興ソング」

「未婚の母」になった笠置は引退を撤回し、再び舞台に上がる。笠置から「センセ、たのんまっせ」と言われた服部は、とびきり華やかな歌で再起の場をつくりたいと考えた。同時にそれは日本人の明日への活力にもなるはずだ。服部は満員電車に揺られながら浮かんだメロディをもとに作曲し、鈴木大拙の息子の鈴木勝に作詞を依頼した。「東京ブギウギ」の誕生である。笠置の私生活を不幸が襲わなければ、「東京ブギウギ」も生まれなかっただろう。

「東京ブギウギ」は日本人だけでなく、笠置の人生にとっても「復興ソング」となった。笠置は舞台の上で力強く歌い踊り叫び、楽屋に戻るとヱイ子をあやしてお乳を飲ませた。その姿に誰よりも声援を送ったのが、ガード下に生きる夜の女たちである。当時「パンパン」と呼ばれた街娼は6大都市だけで約4万人いたといわれている。笠置の境遇に共感するものがあったのか、彼女たちは日劇のステージの最前列に座り、花束を投げ入れた。笠置も劇場の外で彼女たちと交流をもち、病気と聞けば見舞いに駆けつけるなど、つきあいを続けた。笠置の歌うブギウギは、時代に虐(しいた)げられた人々にも生きる希望を与えるメロディだったのである。

2024.01.24(水)
文=笹山敬輔