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僕の贈りもの

 1971年4月、小田和正は、早稲田大学大学院理工学研究科修士課程に入学。同時にずっと迷っていたプロ入りを決めた。「赤い鳥」の山本俊彦や山本潤子はずっとプロ入りを勧めていたが、小田と鈴木は決断できずにいた。後に山本俊彦に、

「とにかくウダウダウダウダしているわけ。世の中に煮え切らない人間がいるとしたら、もうオフコースしかいないってくらいにね」

 と言われるほど迷った末に、ある音楽出版のディレクターに勧められて、5月、かぐや姫や加藤和彦、杉田二郎らがいた「パシフィック・エンタープライズ」という音楽事務所と契約した。

 ずっと後年、60代を迎えたころ、吉田拓郎との対談で、小田はこんな発言をしている。

「よくこっちに踏み出したなっていう、それはもちろんすごい好きだったから、音楽をやめるという選択は考えられなかったから、その消去法でこっちに進んだんだというのはあるけれど、なんの後ろ盾もなく、教育も受けてなく、何のレールも見えないところに向かってあそこに踏み出したってことを、最近、考えるんだよ。あそこで決断した、その一番の理由は何だったのか、いまだにわからないけどね」

 しかし、やはり、現実は厳しかった。

 主な仕事といえば、人気のあったかぐや姫の前座や杉田のレコーディングの手伝いなど。コンサートも、知人の実家の幼稚園やデパートの屋上、遠方まで行って3曲歌うといったもの。それも月にポツンポツンとある程度だった。このころの話を小田は結構、饒舌に話す。

 たとえば、こんな話。

「惨めな話はいっぱいあるんだけど、一番惨めだったのは千葉の行川アイランドでのTBSの公開録画だった。当時は高校の後輩らも入れて4人でやっていて、車1台で行くことになった。その時、『赤い鳥』は経費が出て、前日、特急で行って、旅館かホテルに泊まった。でも俺らは経費もないから車で当日行ったけど、交通渋滞でどうやっても辿りつかなくて、途中、公衆電話で何回も連絡して、それで行ってみたら、もう終わっていて、お客さん、みんな帰っちゃってた。

 すみませんって謝ったら、『大丈夫、大丈夫、赤い鳥が全部やったから、問題ないよ』って言われて、問題ないのが寂しくってさ。いいんじゃん、俺たちがいなくたってと。そしたら帰りの車のなかで誰も口きかなくてずっと黙っていた。それ、ずっと覚えているな。『なんだ、お前ら』って怒ってもらった方が、『すみません、今度頑張ります』って言えたのに」

 当時のメンバーは4人で、その1人は地主と入れ替わりに入った聖光学院の2年後輩で早稲田大学理工学部の学生の小林和行、それにマネージャーの吉田浩二だった。いまや建築設計会社の社長となっている小林も、この千葉の体験は忘れられないと話す。

「間に合うように、猛スピードを出し右車線右車線で行ったのに、期待されてなかったですからね。羽田空港のホテルの屋上ビヤガーデンでもやりましたが、爆音で何も聴こえなかったです。でも僕自身は気楽な気持ちで加わったので楽しかったです」

 そんな小林がなにより印象に残っているのは、2枚目のシングル「夜明けを告げに」のレコーディング中に、小田が「自分が後悔しないよう選択するなら、建築ではなく、オフコースだ」と呟いたことだったという。

2023.12.31(日)
著者=追分日出子