この記事の連載

 小田が74歳から75歳にかけて行われた全国ツアーの全行程に同行したツアーコラムを挟みながら、小田和正の、誕生から2023年の現在までの人生を、本人はもとより、その親族、友人、元オフコースメンバーはじめ音楽関係者たち、さらに多くのスタッフの証言から紡いだ物語が『空と風と時と 小田和正の世界』である。音楽の神様に導かれ、ストイックなまでに自分の音楽を追求してきた、決して器用とも順調ともいえなかった小田和正の音楽人生の記録である。


 大学を卒業した1970年、音楽の道に進むと決断することもできないまま、小田は翌年の大学院入学を目指し、鈴木も就職の内定を蹴り、やはり翌年の大学院入学を目指し、地主は東北大学では志望の建築学科に入れなかったため、翌年の早稲田大学建築学科への学士入学を目指した。3人はみな宙ぶらりんの状況のなか、音楽活動を続けていた。

 同年11月14日、彼らは、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストでグランプリを獲得した「赤い鳥」と共に「8人の音楽会」と題したコンサートを東京・大手町のサンケイホールで開いた。「赤い鳥」はいち早く、プロとなり、LPレコードを発表していた。しかし彼らもプロの世界とは違う、自分たちが納得できるコンサートを開きたかったのだろう。

「8人の音楽会」は、小田の兄兵馬らが中心メンバーとなり準備したが、公害問題がようやくクローズアップされていたなか、「もっときれいな自然を取り戻そう」をテーマにしたものだった。彼らは御殿場近くで合宿までして音楽会に臨んだが、そんな活動を通しても、プロとアマチュアの違いを感じ、プロになることに踏み切れない自分に、小田自身は忸怩たる思いを抱いていたようだ。

「スタッフとして頑張ってくれた友達なんかにもさ、見ていて、やっぱりプロとアマチュアの差が歴然とあったなんて言われるしね。……俺たちは会場に来ている観客に何を伝えられるかとか関係なしに、自分たちだけの自己満足のためにやったという感じだった……。要するにイジケてたんだよな」

 翌1971年2月にも、赤い鳥の5人とオフコース3人のジョイントコンサートが名古屋ヤマハで行われた。その時の聴衆のひとりの証言が、当時のファンクラブ会報誌に残っている。彼はその後、ヤマハの名古屋支店に勤務している。

「第一印象は、『なんだ? コイツら』。なんか学生って感じじゃなくて、地味を絵に描いたようでね。小田さんはコットンパンツに緑色のベスト、ヤスさんはスリーピース、地主さんはカーディガンかなにか着てて、もう地味の代表。ところが第一声を聴いたら、僕は椅子からころげ落ちた。『One Boy』やって、ビートルズのメドレーやって……やる曲やる曲が完璧だった。僕も男3人のグループを作っていて、僕たちが目指してた音そのものだったわけ。興奮しましたね。……楽屋を訪ねたら、……コードの話やらハーモニーのことやら教えてくれて、すごく親近感がありました。でも、数段雲の上って感じだったけど」

 このステージを終え、東京に帰る新幹線のなかで、地主は2人に脱退の意思を告げた。地主はいつかやめることは決めていたが、それまでは、「やめたい」とは言わないようにしていた。しかし、小田たちも覚悟していたのだろう。小田はひと言、「しようがないな」とだけ言った。

2023.12.31(日)
著者=追分日出子