そうしたプレッシャーに加え、実際の制作過程では、宮﨑駿が口やちょっかいを出してきますから。向こうからすれば、自分のスタジオで自由にふるまうのは当たり前であり、目の前にある創作物を自分の色に染めたくなるのもつくり手の本能なのでしょうけど、やられる側はたまったものじゃありません」

父・宮﨑駿はいくら追ってもさらに先へ走り続けていく

 なるほど、スタジオジブリで映画監督を名乗ることの苛烈さは、想像を絶することのよう。不思議なのは、自身の父親たる宮﨑駿のそうした性向はよくわかっていただろうに、なぜみずから映画監督を引き受けたのかという点だ。 

「最初はうっかり受けてしまったというのが本当のところです。『ゲド戦記』の監督の話を鈴木敏夫プロデューサーに持ちかけられ、やったらおもしろいだろうなとつい思ってしまった。

 あのとき、引き受けなければよかった。やらなきゃよかったな。いまもそう思います。

 映画づくりはただでさえ大変なのに、自分の場合は父親が宮﨑駿なので、どうしてもその背中を追いかけざるを得なくなってしまう。越えるとは言わないまでも、敵うくらいのものをつくらなければ……という気持ちがあった。

 しかも、追いかける対象たる宮﨑駿は、いくら追ってもさらに先へ、どんどん走り続けていきます。だっていまだに『君たちはどう生きるか』みたいな作品を発表するんですよ。あんなものをつくられたら、正直追いつきようがない。徒労感が残るばかりです」

 

スタジオジブリの存在が重石のように感じることも

「父・宮﨑駿」や「スタジオジブリ」とは、やはり相当に重い存在なのか。

「若いころはそりゃ重かったです。どこへ行っても『宮﨑駿監督の息子さんなんですね』と言われてきましたし。ましてや同じスタジオにいて何かをつくっていたら、常に比較されてしまうわけです。すこしは慣れたとはいえ、重さはいまも感じ続けています。

 もちろん愛着はあるが、背負わされた重石のように感じることもある。これから先、足抜けできることはあるんだろうか? などと漠然と考えたりしてしまいます」

2023.11.16(木)
文=山内宏泰