三作の中で最もわかりやすい形で胸を揺さぶってくるのは、最後に収められた「ロケバスアリア」だろう。夫を看取ったあと介護の仕事を始め、古希を迎えた春江(はるえ)がコロナ禍を逆手に取り、一世一代の夢を叶えようとする。
緊急事態宣言であらゆるイベントが中止になった二〇二〇年。憧れのオペラ歌手も立った浜松の音楽ホールが無観客を条件に一般開放され、三時間二十万円で借りられると知った春江は、即座に予約。勤務するデイサービスセンターが自主休業に入った翌日、孫の運転するロケバスで東京を発つ。『トスカ』第二幕のアリアを歌うために……。人生の荒波に揉まれることで磨かれてきた春江の明るさと靱(つよ)さは、彼女と触れ合う人々の心を覆っていた暗雲に風穴を開ける。新型コロナのパンデミック以降、誰もが少なからず抱えている鬱屈にも効果がありそうだ。
収録作品は、新型コロナウイルス感染症がニュースになる少し前に書き始められ、二〇二〇年から二一年にかけて「オール讀物」に掲載されたという。パンデミックの渦中にトラブル続出のロードノベルを紡いでいたわけだ。さらに、その遥か前から著者が次々に押し寄せる困難と格闘していたことを、『介護のうしろから「がん」が来た!』というエッセイ集の文庫版あとがきで知った。
二十八年ほど前に、実母が認知症を発症。徹底した取材や調査に裏打ちされた、あの多彩で骨太な作品の大半は、徐々に症状が進む母を実家に通って介護しながら生み出したものなのだ。二〇一七年、母親が施設に入り余裕ができたのも束(つか)の間(ま)、今度は自身に乳がんが見つかる。術後は順調だが、「ボルボ」を書き上げた数カ月後、絞扼性(こうやくせい)イレウスにより捻(ねじ)れた腸の一部が壊死(えし)し、死にかけたという。驚嘆すると同時に納得もあった。だからこそ、この中編集は軽やかでいて奥深く、押しつけがましさ皆無なのに、読んでいるといつの間にか鼓舞されてしまうのだろう。
「ロケバスアリア」の春江は、七十歳を過ぎても夢に向かいひた走る。そして、新たに押し寄せてきた大波を前に思う。
〈運命を嘆いてなどいられない。神仏を恨んだところで何になるだろう。
今日を楽しみ、歌い、食べて、飲んで、働き、人生を愛する。命の尽きるその日まで〉
ヒロインの言葉に、作家・篠田節子の覚悟が重なって見えた。
田舎のポルシェ(文春文庫)
定価 902円(税込)
文藝春秋
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2023.11.02(木)
文=細貝さやか(ライター)