描きたいのは「リアル」そのものではない

――映像と演劇で、作り方は違うものですか?

 ぜんぶ違います。「語らずして表現する」ことが映画の持つ性格だと思うので、映画ではセリフではない部分をベースに脚本を書きます。でも演劇はやっぱりセリフの部分がベースになってくる。また、それぞれのリアルの基準も違う。映画では映画の中での、演劇では演劇のある到達点を目指して脚本を書き、演出もしていきます。

――その違いを面白いと思いながら作っている?

 違いが面白いかはわかりませんが、自分が何をしようとしていたのか、わかり方が違う気がします。また、リアルだから面白いとは思っていません。リアリズム自体に面白さがあるわけじゃなくて、好みだからその表現手法を取っているだけで、リアリズムをいちばん大事にしていたり、目指したりしているわけではない。 

――リアリティのある表現を好んでいるからそういう作品づくりをしているだけで、重要な部分はそこにはないということですね。加藤さんの作品は「リアリティがある」「生々しさが伝わってくる」と評価されることが多いと思いますが、「本当は違うのにな」という思いも?

 そう評価してもらえること自体は気にならないです。一面的な切り取り方はしたくない、多面的な人間が登場できるといいなとは思っています。

――では、加藤さんが作品を通じてもっとも訴えたいことは?

 先ほども少し触れましたが、いわゆる「他者の合理性」に思いを寄せることがすごく大事、ということですね。あるテーマを直接的に訴えたい、知識を与えたいと思ったら、ブログでもTwitterでもエッセイでも、文章を通じて発信することができるじゃないですか。別に80分なり2時間なりを使って映画や演劇を観なくてもいい。でも、そこを「物語」として見せることが僕にとっては重要なんです。

 主人公の綿子も、綿子の不倫相手の木村も、綿子の夫・文則も、他者から見たら一見非合理に思える行動をとっている人たちですよね。そういう人たちを拒絶するのではなく、主人公たちと一緒に物語の中を体験することで、自分の中で考えて知識に変えられるのが物語の力だと思っています。

映画より演劇より前に「物語」であること

――加藤さんは10代の頃から映像制作に携わってきたと伺いました。

 構成作家をやったり、ミュージックビデオとか短編作品、ドラマを撮影していました。だからいずれは長編を撮ることもあるのかなとぼんやりと思っていましたが、強い憧れがあったわけじゃなかったんです。プロデューサーの方が「初長編は一緒に」と言ってくれて前作『わたし達はおとな』が実現した形です。

――そこからさらに演劇も手掛けるようになった経緯は?

 きっかけは偶然なんです。イタリアから東京に帰ってきて、しばらくホームレスをしたあとにたまたま住むことになったシェアハウスのみんなが演劇をやってた。映画も演劇も、その手前には物語があるじゃないですか。物語がたまたま演劇になって、映画になったというだけです。

――物語を伝える方法として映画と演劇を選んでいるわけですね。物語が常に前にある。

 「物語ってどうやって生まれたんだろう」と思います。一番最初にウソの話を始めた人は誰だったんだろうって。「マジめちゃくちゃでかいティラノサウルスいたわ」「いやそんなティラノいないっしょ」みたいなことから始まったのかもしれないし。だから、物語を作るという意味だと、今後また映画とも演劇とも違う形になるかもしれません。

2023.09.09(土)
文=釣木文恵
撮影=平松市聖