あるいは、信長が鉄砲を大量に入手し、鉄砲隊を組織したところが、他の戦国大名と違う新機軸だと言われてきた。その典型的なケースとしてクローズアップされたのが、武田勝頼(かつより)の軍勢を打ち破った一五七五年の長篠の戦いである。しかし、実際には武田信玄も上杉謙信も鉄砲の重要性を認識し、相当数の鉄砲を手に入れていたことが史料でも裏づけられている。
こうした研究をもとに「信長は他の戦国大名と大差なく、新しくもない」と主張し、なかには「そもそも信長の鉄砲隊があったかどうか疑わしい」と言う研究者もいる。
鉄砲隊が組織されていたかどうかという具体的な検証は別の機会に譲るとして、私が不思議でならないのは、そういう主張をする研究者たちが「信長が普通の戦国大名と変わらない」ことを立証するのに執着している点である。なかには、定説をひっくり返すことそのものが目的になっているようなケースも見られ、研究がいびつな形で行われることに危機感を覚えざるをえない。
私が師匠で東京大学名誉教授の石井進(すすむ)先生に厳しく教えられたのは、何かを批判する際は「では、君はどう考えるのか」と問われたときに、きちんと答えられるように用意をしておけということだった。そうでなければ、批判のための批判になってしまうからだ。
信長の新しさを否定する研究者たちの論稿を見ると、「信長は朝廷を尊重していなかったと言われるが、そうとも言えない」とか、「信長は神仏を軽視していたと言われるが、そうとは限らない」というスタンスで従来の説が批判されているが、その後に自説が伴っていないのだ。
これでは、他の研究者が言っていることをただ引っくり返しているにすぎない。では、「信長は朝廷を尊重していたのか」あるいは「信長は神仏を重視していたのか」という質問に、彼らはどう答えるつもりなのだろうか。
信長は確かに個性的な武将だった。だが、信長の革新性が好きだとか残虐性が嫌いだとかといった、信長個人への感情移入は学問的には意味がない。そして、ある特定のイデオロギーを信長に託すこともあってはならない。そもそも、歴史学が信長の内面を探るうえで手助けになるということはない。
2023.08.03(木)