『インビジブル』(坂上 泉)
『インビジブル』(坂上 泉)

 まだまだ敗戦の色濃い昭和二十九年(一九五四)五月、大阪で殺人事件が発生した。現場は大阪城東部、旧造兵廠跡の国有地ということになっているが、実際には不法占拠のバラックのならぶ盛り場と、在日朝鮮人の集落とのあいだの草むらの空地、いわゆる「三十八度線」で、堅気の足を踏み入れるところではない。

 殺されたのは衆議院議員・北野正剛の秘書である宮益義雄、四十三歳。背広を着て、靴をはいたまま仰向けに倒れていたが、頭部には「中央卸売市場」の字の印された麻袋がかぶせられていた。大豆や穀物を入れるドンゴロスだ。死因は左腹部および左前胸部への複数の刺傷による失血か。

 現場へ最初に到着し、そのまま事件を担当することになったのは主人公、新城洋巡査である。大阪市警視庁東警察署刑事課一係所属。刑事になってはじめて出会う殺人事件だった……と、本作『インビジブル』ではこの肩書きが重要だ。大阪なのに警視庁? 警視庁って東京の組織じゃなかったっけ。

 じつを言うと――私も本書を読んで知ったのだが――この当時、大阪市警視庁はほんとうに存在した。こんにちの大阪府警の前身のひとつであるが、よりいっそう正確な説明のためには戦前の制度を参照しなければならない。戦前のいわゆる明治憲法下では警察というのはすべて国家に属していて、長官はもとより一巡査にいたるまで国家公務員だった。

 この組織のありかたは、敗戦後、日本を占領した連合国最高司令部(GHQ)の問題視するところとなった。こんなことでは警察とは権力者の槍の穂先のようなもので、政治的中立性を保つことができない上、各地の実情に対応できない。まったく非民主的ではないかというわけで、GHQの指令を受け、日本の制度は国と地方の二本立てになった。地方というのは文字どおり地方なので、全国の市および人口五千人以上の町村がそれぞれ市町村警察を置く。

 全国に千六百以上、これを自治体警察と総称した。ただしこれだけでは田舎や僻地はカバーできず、広域犯罪にも対応できないから、そこのところは各都道府県に国家警察を置いて対処する。

2023.08.01(火)
文=門井 慶喜(作家)