大河ドラマ『鎌倉殿の13人』がいよいよ最終回を迎える。2代執権として政権を握った北条義時(小栗旬)は、鎌倉幕府を支えた時代の立役者だ。本作では、そんな義時を主人公に据え、権謀術数渦巻く舞台での権力争いが描かれてきた。
史料にも記された、北条義時の“権力者としての才覚”とは一体どれほどのものだったのだろう。ここでは東京大学史料編纂所教授を務める本郷和人氏の著書『北条氏の時代』(文藝春秋)より一部を抜粋。歴史学者が語る「北条義時の真実」とは?(初出:文春オンライン2021年12月4日)
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戦争放棄の院宣
幕府軍の京都入城に合わせて、後鳥羽上皇は敗北を認める院宣を出し、泰時が受けとりました。この内容がとにかくひどい。「自分は騙されただけだ」と乱の責任を藤原秀康、三浦胤義たちに押し付けたのです。
(藤原)秀康朝臣、(三浦)胤義以下の徒党、追討せしむべきのよし、宣下すでにおわんぬ、……凡そ天下の事、今に於いてはご口入に及ばずと雖も、ご存知の趣、いかでか仰せ知らざるか。凶徒の浮言に就きて、すでにこの御沙汰に及ぶ。後悔左右に能わず。……自今以後は武勇を携えるの輩は召し使うべからず、また家を稟けずに武芸を好む者、永く停止せらるべきなり……先非を悔いて仰せられるなり
(『承久記』)
大きな政策転換も書かれています。
「これからは、武士たちを出仕させない。貴族のなかで家業をつがず武芸の稽古をしているものも出仕させない」
「戦争放棄」「軍備の放棄」を宣言することで、今回の件は許して欲しいと訴えたのです。この院宣こそ、日本史の大きな転換点といっていいでしょう。古代のヤマト朝廷より「武」によって権力を維持してきた天皇が、以後、軍事には口を出さないとした。これによって武士による支配の時代が本格的に始まったのです。
試される戦後処理
義時は戦争が終わった直後から過酷な戦後処理を行います。7月2日に後藤基清、佐々木広綱ら御家人でありながら朝廷についたものは次々と処刑しました。
この者らは皆、関東の被官の武士である。右大将家(源頼朝)の恩を受けて数箇所の荘園を賜り、右府将軍(源実朝)の推挙により五位に昇った。たとえ勅命を重んじたとしても、どうして精霊(頼朝・実朝)の照らすところに恥じないことがあろうか。すぐにその御恩を忘れて遺塵を払おうとするのは、全く弓馬の道ではないと、人々は彼らを嫌ったという
(『吾妻鏡』承久3年7月2日)
朝廷側に加わった御家人のなかには、大番役などでたまたま京都にいたため、参加したものもいました。東国には、兄弟や親族などが残っている場合が多く、普通なら彼らが助命嘆願したように考えてしまいます。しかし現実は違いました。朝廷側に加わった者の首を取れば、その領地が恩賞としてそっくり手に入るのですから、むしろ身内に対して極刑を望む者もあらわれたのです。
官軍に加わって処刑された佐々木広綱の子、勢多伽丸は、まだ11歳の少年でした。さすがに占領軍の総大将だった泰時も彼の命は助けようとします。ところが、叔父の佐々木信綱(1180?~1242)が「自分の恩賞はいらないから、勢多伽丸を殺してくれ」と懇願します。泰時は手柄を挙げた信綱の必死の願いを受け入れざるを得ません。結局、勢多伽丸は首を切られました。兄の一族が滅んだことにより信綱は、佐々木氏本家の棟梁の地位を手に入れます。さらに一族の本拠地である近江の佐々木庄の地頭にもなりました。ちなみに、彼の末裔は近江で勢力を伸ばし、鎌倉幕府の末期には、婆娑羅大名として知られる佐々木道誉(京極高氏)が登場します。
2023.01.02(月)
文=本郷和人