後鳥羽上皇を流罪にする

 朝廷にも処罰の範囲は広がりました。幕府は後鳥羽上皇の近臣だった一条信能、藤原光親、藤原宗行、源有雅たちを斬首し、藤原範茂は自害に追い込まれました。また、少なくない貴族が追放されるなど、厳しい処断がくだりました。

 武家が貴族たちの刑罰を決めて、次々と処刑していくというのは、前例のない、タブーを破る行為でした。貴族たちもどこかで、「なんだかんだ言っても命だけは助かるだろう」くらいに思っていたはずです。しかし、義時は甘くなかったのです。

 

天皇を超える権限を手に入れた武士

 例外もありました。官軍の大将軍だった坊門忠信(正二位・権大納言、1187~?)は、首謀者の一人として鎌倉に連行されました。後鳥羽上皇の外戚として権力を振るった人物です。何としてでも生き延びたかった坊門忠信は、妹で源実朝の妻だった信子を通じて、「なんとか命だけは」と北条政子に助命を懇願します。政子から義時に話が持ち込まれたのでしょう、最終的に死刑は免れて越後に配流となりました(のちに京都に戻っています)。このことからも北条義時が乱の首謀者たちの生殺与奪の権を握っていたことがわかります。

 さらに日本史を決定的に変えたのは、後鳥羽上皇すら罪に問うたことでした。これは、武士が朝廷をも凌駕する力を得たことの象徴となりました。後鳥羽上皇は、遠く日本海の隠岐に流されました。さらに後鳥羽の長男である土御門上皇(1195~1231)は土佐に流され(のちに阿波に移る)、次男の順徳上皇(1197~1242)は佐渡に流されます。土御門が幕府との対立を望まなかったことは幕府側にも知られていましたので、はじめは無罪とされたのですが、本人が「父が流されるのであれば自分も」と希望したため流されたのです。

幕府は後鳥羽上皇の影響力に対して強く警戒していた

 後鳥羽上皇は、亡くなるまで何度も「都に帰りたい」と幕府に頼みました。しかし、幕府は断固拒否したため、乱の18年後の1239(延応元)年に隠岐の地で崩御しました。ほかの上皇も配流地で崩御しています。

2023.01.02(月)
文=本郷和人