ただし天皇や上皇を殺すことはしませんでした。討幕運動を何度も行った後醍醐天皇が配流で済んだのは、承久の乱が前例となったためかもしれません。

 

 義時は後鳥羽上皇の血統を徹底的に排除することで、ある種の見せしめにしようと考えました。まず、4歳だった仲恭天皇(順徳天皇の子、1218~34)を退位させています。わずか78日の在位でした。即位式も行われず、さらに退位後母の実家の九条邸で亡くなったことから、九条廃帝と呼ばれていました。仲恭天皇と諡号が贈られたのは明治時代になってからです。

 さて、幕府はこの仲恭天皇の代わりに、後鳥羽上皇の兄で、天皇になったことのない守貞親王の子を即位させます(後堀河天皇、1212~34)。政治は上皇が行いますので、守貞親王は天皇に即位したことがないまま、太上法皇(後高倉上皇)となって院政を行うことになりました。

 ここで少し話を進めます。後高倉上皇は2年後に崩御したため、親政ののち後堀河天皇が譲位して子の四条天皇(1231~42)が即位します。ところが、この四条天皇が12歳の時に不慮の事故で崩御してしまいました。他に後堀河上皇の子供はなかったため、天皇の候補は後鳥羽上皇の血統しかいませんでした。貴族たちは後鳥羽上皇の次男である順徳天皇の子を即位させようとしますが、幕府の圧力によって、親幕府派だった土御門上皇の子である邦仁王が後嵯峨天皇(1220~72)として即位することになります。承久の乱から20年ほど経過した後も、幕府は後鳥羽上皇の影響力に対して強く警戒していたのです。この事件は、泰時の章で京都の政局と幕府内の動きを交えつつ、再度触れようと思います。

承久の乱の意義

 承久の乱は幕府と北条氏にとってどのような意味があったのでしょうか。

 まず朝幕関係は幕府主導になりました。権力のありかを示すのは、なんといっても人事です。幕府が天皇を意中の人物に代えるほどの権力を握ったことは前述したとおりです。

2023.01.02(月)
文=本郷和人