誰かを愛し、愛される権利。自分の感情と欲望を表す権利。そんな人間としての当然の権利を迫害されたとき、人はどのように尊厳を保つことができるのか。
1871年から1994年まで続いた、男性の同性愛行為を禁じる刑法175条のもと、ドイツでは数多くの同性愛者たちが迫害され、投獄され続けた。この悲惨な歴史に目を向けたのは、オーストリア出身のセバスティアン・マイゼ監督。戦後の西ドイツの刑務所を舞台にした映画『大いなる自由』で、マイゼ監督は、不条理な迫害のなか、ただ自由と愛を求めて生きる一人の同性愛者の不屈の闘いを、怒りとともに描き出す。
刑法175条によって、20年以上ものあいだ何度も投獄されながら、決して自分を曲げず自由を求め続けるハンスを演じたのは、『希望の灯り』(18)『水を抱く女』(20)などに出演し、いまやドイツを代表する俳優となったフランツ・ロゴフスキ。当初は同性愛者のハンスを毛嫌いしながらも、徐々に絆が芽生えていく服役囚ヴィクトール役は、オーストリア出身で数々の映画に出演してきたゲオルク・フリードリヒ。これが長編劇映画2作目となるマイゼ監督に、本作を作ろうと決めた経緯と、映画に込めた思いをうかがった。
愛する人を自由に愛することができない
――恥ずかしながら、私はこの映画を見るまで、ドイツにおける刑法175条の存在についてはほとんど知りませんでした。特に驚いたのは、刑法175条とホロコーストとの関係です。ナチスによるホロコーストの犠牲者のなかに、ユダヤ人だけでなく同性愛者も含まれていたことは知っていましたが、ハンスのように、戦争が終わり強制収容所から解放された後そのまま刑務所に移送された人たちがいたという恐ろしい事実を、映画を見て初めて知りました。マイゼ監督はオーストリア出身ですが、刑法175条について以前からよくご存知だったのでしょうか。
セバスティアン・マイゼ 実はオーストリアでも、刑法175条はドイツと同じようにずっと存在していたんです。元々この刑法が制定されたのはワイマール共和国時代(1918~1933)で、オーストリアもその文化圏にあったので。ただし1920年代はかなりリベラルな時代で、ゲイの人たちにとっては黄金期とも呼ばれていました。ですから、刑法175条は法律としては存在していたものの、実際に同性愛者の男性たちが逮捕されたり刑務所に送られることはほぼなかったんです。
状況が一気に厳しくなったのはナチス時代です。そのきっかけとなったのが、エルンスト・レームという陸軍軍人の存在でした。彼はオープンリーゲイとしてよく知られた人物で、当初はヒトラーとも親しい仲でした。しかし次第に彼の性的指向がナチスのイメージを傷つけるものとして扱われるようになり、政治的な対立も背景にありつつ、最終的に彼は処刑されました。これを機に刑法175条による取り締まりがどんどん厳しくなり、ナチス政権下でたくさんの同性愛者たちが処刑されたそうです。
私自身は以前から刑法175条の存在は知っていたものの、あまり深く考えたことはなくて、偶然ハンブルクのクィアの歴史に関する本を読んだときに初めて、この刑法にまつわる様々な事件や歴史を知ることになりました。何よりショックを受けたのは、ずっと自分たちをファシズムから解放してくれた存在だと思っていた当時の連合軍、特にアメリカ軍とイギリス軍が、同性愛者たちに何を行ったのかを知ったときでした。
実は当時のアメリカとイギリスには、ドイツと同じように同性愛的行為を禁じる法律があった。そのために、強制収容所にいた同性愛者の男性たちを見つけたとき、「彼らにはまだ刑期が残っている。それならここから出して刑務所に移送しよう」と考えたわけです。実際に連合軍が強制収容所から刑務所に同性愛者たちを移送した事実があると知ったとき、私は本当に衝撃を受けました。彼らはここまで迫害されていたんだと。正直いって、連合軍のしたこのような行為は、少なくとも同性愛者迫害という点ではナチスと同レベルじゃないかと思ったほどです。
愛する人を自由に愛することができない。これは人間として許しがたい状況です。しかも調べてみると、当時のドイツ政府は、本当にバカじゃないかと呆れるようなあらゆる手段を使って執拗に彼らを炙り出そうとしていたことがわかってきた。そうした事実関係を調べながら、この物語をつくっていきました。
2023.07.06(木)
文=月永理絵