映画作りという行為自体がのぞき見行為そのもの

――映画の冒頭で映されるのは、公衆トイレでハンスを含むたくさんの男たちが出入りし、性行為をしている姿です。これらはマジックミラーを使って警察が盗撮した映像だと徐々に判明するわけですが、まさにドイツ政府と警察による呆れるような手段の一つですよね。あのシーンを冒頭に持ってきた理由は何でしょうか?

セバスティアン・マイゼ こういう捜査の仕方は、ドイツだけでなくアメリカでも行われていました。ドイツで撮影された実際の映像は残念ながら残っていないのですが、1960年代のアメリカで隠し撮りされた記録映像は、アーティストのウィリアム・E・ジョーンズが発表した「Tearoom」というインスタレーション映像のなかで見ることができます。それを見たとき、「私が探していたのはこれだ」と思ったんです。

 というのも、『大いなる自由』という映画自体、プライバシーの侵害やのぞき見行為、監視行為についての物語だからです。そしてある意味では、映画というメディア自体がのぞき見行為であり、自分以外の人物の人生の搾取だともいえる。ヒッチコックは、『裏窓』(54)の主人公を「のぞき屋」だと言われたことに対し、「人間である以上、わたしたちはみんなのぞき屋ではないだろうか」(『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』)と語り、だから人は映画を見に行くのだと言っていましたが、まったくそのとおりだと思います。映画の作り手は、常に誰かの人生をのぞき見し搾取していることに自覚的でなければいけない。そういう映画に対する自分の考えを象徴するうえでも、この盗撮映像から映画を始めるのがぴったりだと思いました。

 公衆トイレのなかでとても親密な行為を行なっている男性たちがいて、それをマジックミラー越しのカメラが見つめている。そして映画を見る私たちは、そのカメラと同じように彼らのする行為を見つめています。ここで、ハンスが突然正面からカメラをじっと見つめる場面がありますよね。もちろん彼には鏡の裏側は見えていないので、ただ鏡に映った自分の姿を見ているだけです。でも突然彼と目が合ったことで、観客はまるでカメラの向こうから彼に見つめ返されたようでドキッとしてしまうはずです。

 他にも、物語のなかで誰かが誰かをのぞき見るシーンが何回か繰り返されます。たとえばヴィクトールが刑務所の扉の監視窓から、ハンスの恋人であるオスカーという男の姿をのぞき見るシーンでは、突然オスカーがヴィクトールを見つめ返します。そのとき、私たち観客もまたオスカーに見つめ返されたような、のぞき見行為を咎められたような、居心地の悪い思いをするはずです。こうした見る/見られるという奇妙な関係性は、映画というものの本質と関わる部分だと私は考えます。

2023.07.06(木)
文=月永理絵