また、澤田作品の特徴として“聖と俗の対照”を挙げたが、少なくとも本作における“対照”は、いささか複雑な形を取っている。本作のストーリーは確かに林丘寺という“聖”の元に市井の“俗”の問題が持ち込まれることで展開されてはいる。しかし、作中で描かれる“俗”の事件には、(“聖”の側にいるはずの)林丘寺の人々の行動や思いが密接に関わるものも多い。林丘寺にいる人々は、いかに王朝の気配を身に纏いながらも近世人であり、聖の側に属しているようでいても俗とは無縁の存在たり得ていない。本作における林丘寺や寺にいる人々は、前近世と近世の間、聖と俗の間をふらつき続けているのである。
本作を初めて(単行本刊行時に)拝読した際、わたしは疑問に思ったものだった。なぜこの小説はこんなにもややこしい構成を取っているのか、と。
わたしは一応、それに対する答えを用意できる。
林丘寺のアジール性を否定するためである。
アジールとは、世俗の統治権力の及ばない地域のことで、中世日本においては寺社などがそうした場所であったとされる。しかし、近世に入り寺社のアジール性は武家政権による一元支配によって否定され、縁切寺の離縁調停などにその名残が留められたと説明される。
本作における林丘寺はアジールに近似した働きをしている。その反面、作中のそこかしこで、林丘寺が中世寺社ほどの力を持たず、制度的にも俗世の調停を行なう権限を持っていないと度々言及されている。
なぜ本作はこんなにも林丘寺のアジール性を様々な形で否定しているのか。それは、林丘寺が理由なく俗の調停に首を突っ込んでいる不可解な状況を作り上げるためである。なぜそこまで? そんな疑問が作中の底流にずっとあり続け、それがラスト、ある人物の祈りに回収され、物語の環が閉じられる。言うなれば、本作は従来の“澤田作品らしさ”を壊した先にしか描けない境地の上に立っているのである。
わたしが本作を「王道作なのに異色作」と述べた理由、それは、物語の要請に応じ、著者が従来の“澤田作品らしさ”を底流で分解し、新たな構築を試みている様子を見て取ることができるからである。
2023.07.05(水)
文=谷津 矢車(作家)