でも、中高時代に、友人と、本の話や知的な話をしたことがありません。バスケットの友人はたくさんいましたが、彼らとは運動のことしか話さなかった。知的・文学的な友達はいなくて、一人で本を読むだけでした。
球技の他に得意だったのは、数学です。好きというより、たんにできただけですが、全国模試のようなテストで、一位になったこともありました。本番の大学入試でも、数学は最初の三十分で全部解けてしまって、あとは試験時間が終わるのを待っていた、というような生徒でしたね。でも、数学者になれるほどの天才でないことは、自分でも分かっていた。学問として数学をやるなら、そのくらいの年齢で大発見でもしていない限り無理だと思っていましたから。
大学は東大へ行きましたが、それも先生に「なんで東大を受けないんだ」と言われたからです。それで、何となく行くことになった。そもそも大学へ行こうとも考えていませんでした。志望校を書く書類に、自宅から近い神戸大学と書いて提出したことがあります。要するに、大学に関心がなかったのです。
受験では、直前まで理科系を志望していたけど、将来の選択肢が減るから文科系にしました。当時、東大の教養課程は一類(法学・経済学)と二類(文学)の二つで、二類に進むと、やはり選択肢が減りそうだなと思い、文科一類を受けた。その後を考えれば、初めから人文科学を学ぶ文科二類に行っておいた方がよかったのですが。
駒場寮での日々
大学へ進学後、柄谷氏は、まだ学生だった廣松渉(哲学者)、西部邁(経済学者、評論家)、坂野潤治(歴史学者)、加藤尚武(哲学者)らと交流するようになる。
受験のとき、駒場寮を見物しましたが、あまりにも汚くていやだったから、最初は東京郊外の三鷹市にあった東大の学生寮に住むことにしました。入学してしばらく経ってから誘われて駒場寮へ移ったのですが、その部屋が学生運動の中心だったのです。
私よりも上の世代では、駒場寮には学生運動をしていた学生が千人以上もおり、二階すべての部屋がその手の学生たちで埋まっていて、北京通り、モスクワ通りというような呼び名があったそうです。が、一九六一年には、たった二部屋に減っていました。それが社研(社会科学研究会)と歴研(歴史研究会)の拠点で、私はそこに住んでいた。歴研が寝室で、社研が会議室でした。
2023.06.20(火)