家には読書家だった父の本が沢山あったので、自然と本を読むようになりました。父からは「本を読め」と言われたことは一度もなかったけれど、たぶん、私が本を読んでいたことを喜んでいたと思います。父は本当は学問をやりたかったのではないでしょうか。左翼的な人で、その類いの本がずいぶんありました。
繰り返し読んだのはアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』や、吉川英治の『三国志』などです。その他に、家にあったので、大人向けの文学全集や哲学書も、小学生のころから、読んでいましたよ。
柄谷氏は西宮市にある中高一貫の名門、甲陽学院に進み、そこから東京大学文科一類に進学する。
小学校は地元の公立でした。自分が勉強できるとはあまり考えたこともなかったけど、高学年のとき、先生から私立校への進学を勧められました。「灘より甲陽のほうがいいよ」と。私はどちらも知らなかった。ちなみに、灘は白鶴、甲陽は白鹿と、どっちも日本酒の酒造が設立した学校なんですが、当時はまだ進学校として知られてはいなかった。私も知らなかった。
その先生は、旧制の甲陽中学で野球をやっていて、その後も少年野球のコーチをしていたのです。甲子園球場の真横にあったこともあって、甲陽中学は戦前から、野球が盛んで、強かった。阪神でプレーして、近鉄や大洋の監督も務めた別当薫も甲陽の出身です。
その結果、その先生の指導のおかげで、同じクラスから、三人も甲陽中学に行くことになったのです。中学以後も野球を続けたのは、一人だけです。北川公一という人で、慶應義塾大学を経て、プロでは近鉄に入団しました。しかし、私ともう一人は違います。その人は、文藝春秋の編集者になった、雨宮秀樹です。娘さんは、アナウンサーの雨宮塔子さんです。
私の場合は、ただ何となく甲陽に入りましたが、野球が自分に向いていると思わなかったから、中学ではやらなかった。かわりに、バスケットボールをやるようになりました。実際、高校のときは、キャプテンでした。
運動にも熱中しましたが、本も熱心に読んでおり、中学生のときにはドストエフスキーの作品をほとんど読みました。すべての書の中で、最初に且かつ最も影響をうけたのはドストエフスキーです。哲学者のデカルトを知ったのも中学生のころ。ソクラテスも好きでしたね。
2023.06.20(火)