映画『真実』によって思い起こされたのは、私自身のかつての救済だ。クライマックス、母娘の和解のシーン。

 私は長い間、母を「母」という生き物として捉えることしかできなかった。母にも自分と同じように、幼少時代があり、学生時代があり、母の母(私の祖母)との“母娘”としての関係が地続きにある、一人の人間なのだと捉えることができなかった。

 母には母親としての役目があり、それを完遂してもらわねば困る、と思っていた。その役目とは、「子を愛すること」だった。「私を愛して欲しい」。ずっとそう思っていた。

 けれど私は欲しがるばかりで、母の欲しいものを感じ取ったことがあったか? 自分をわかって欲しいと思うばかりで、母をわかろうとしたことは一度でもあったか?

 例えば私が二十歳の頃。私を産んで二十年ともなればベテランの母親だという見方もできるが、「二十歳の私」の母親になるのは、私が二十歳の時節だけだ。《「二十歳の私」の母親》は、私と同じ瞬間に誕生日を迎え、母親としての立場は初心者に立ち戻る。

 誰しもが日々生まれ直しているのだから、お互い未熟で当然だった。母が私との和解の際、本作のファビエンヌのように「優しい嘘」をついていたとしても構わない。私は満たされている。なぜなら、私が故郷を愛おしく思えるということは、幼少の頃、母が私に必要なものを十分に与えてくれていたということだ。今でも東京という混濁した都会で少しでも故郷の面影を探そうとするのは、私が子供の頃「幸せだった」という証だ。これほどありがたいことはない。これからもずっと互いに未熟なまま、関係は固定化されることなく、いつだって新鮮でいつだって不安定なまま、続いていくのだから。

 最後に 樹木希林さんについて

『真実』で描かれた母娘には、きっと樹木さんの存在が寄与しているのではないかと感じ取る。是枝さんにとって、樹木さんがどれほど大切な存在であるかを感じ取る。

2023.06.19(月)
文=橋本 愛(女優)