映画や演技は「嘘」「虚構」だと思い込んでしまうのは危険だと思う。映画の中に生きる人は、この世に生きる誰かの写し身だ。映画で描かれる物語は、SFだろうとファンタジーであろうと、この世に生きる誰かの人生そのものだ。それを嘘だと言ってしまえば、誰かの命や人生を嘘とみなすことになる。

「演技はある種の嘘のようにも思われがちだが、自分にとってはむしろ真実に属するもの」――ビノシュの語る実感は、私の実感そのものだ。

 私たちは真実を生き、真実を拡散する役目を担っている。だからこそ、むしろ「嘘」をついてはいけないと思っている。この嘘について一部言語化するなら、「この世に存在しないもの」、「誰の人生にも交差しないもの」である。その点において考えれば、嘘を生み出す人の中に嘘が発生する時点で、全くの嘘というものは存在しないのだが、矛盾を孕むものこそ真理である。なんにせよ、今を生きている人の人生を扱うのだから、演じる際には相当な注意が必要なのだ。

 例えば実際に起きた事件や出来事、また実在する人物を演じるとき、その当事者となる人を一つも傷つけずに演じることは可能だろうかと考える。そしてきっと、不可能に近いだろうと絶望する。それでも、加害の可能性の覚悟を持って、誰かの救済となる可能性に懸ける。それが私の仕事であり、私の原罪だ。

 しかし演じるとき、誰よりもまず先に加害するのは自分自身である。

 私にとって演じることは、他者の不幸を一身に背負うことだ。他者の悲しみや苦しみを、真正面から引き受けることだ。それは人生に立ち向かうことと同義で、逃げも隠れもできない。

 私と役の二人分の心が、悲しみが、思い出したくもないような惨いことが、体内に一人分しかないはずのスペースに所狭しとぎゅうぎゅうに同居し、私の心身を圧迫する。

 演技の上ではいつも私は加害者であり、被害者であり、救済されし者である。演じることで誰かを傷つけ、自分を痛めつけ、しかし誰よりも先に、自分が救われるのだ。

2023.06.19(月)
文=橋本 愛(女優)