思うような仕事に恵まれずアナウンサーとして自信を失いかけていた新人時代。しかしマツコ・デラックスの一言で歯車が大きく動き出すことに…。(全2回の1回目/後編を読む)
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「高橋英樹の娘だよ」と言われるのが本当に苦痛でした
――どのような学生時代を過ごされましたか?
高橋 もともとひょうきんではありましたが、どこにいっても「あの子、高橋英樹の娘らしいよ」と、コソコソ言われている感覚が常にありましたね。
――それは、いつくらいからそう感じましたか?
高橋 幼稚園から高校まで一貫校だったんですけれど、幼稚園のときはそういう感覚は全くなくて、小学校に入って3、4年生くらいのときでしょうか。「タカ」って呼ばれていたのですが、「タカのお父さんって、テレビに出ている仕事だよね」と周りがなんとなく認識しはじめて。自分でも、父兄参観日とか運動会のときも、周りの父兄がちょっと違う目で私のことを見ているなって思い始めました。
その後も中高一貫校とはいえ、途中で他校から入ってくる人もいるし、違う学年の人からも「あの子が、高橋英樹の娘らしい」というのはありました。
あとは、大学に入ったとき、大学のサークルに入るとき。就職セミナーに行ったとき。新しい環境に置かれると、必ず「高橋英樹の娘」と言われるんです。どの子どの子?って見に来られたり、あの子らしいって遠目で言われるのが本当に苦痛でした。
それでもなぜアナウンサーになったのでしょうか?
――そうした思いを抱えながら、なぜアナウンサーを目指したのでしょうか?
高橋 父の仕事をずっと見てきて、人に何かを伝える仕事に興味がありました。
何かを書いたり、制作をしたりするのも魅力的でしたが、新聞を声に出して読むのが好きだったんです。原稿を読んだり、食べたものをリポートするような仕事にすごく興味がありました。
アナウンススクールもいくつか通って、TBS、テレ朝、フジテレビ、NHKと4局、他にも夏のセミナーや短期のセミナーは、全局行っていましたね。当時、アナウンサーはわりと華やかな職業として見られていたんですが、私は華やかな職業につきたいわけではなくて、ニュース原稿が読みたい、アナウンスメントがしたいという理由でアナウンサーになりたいと思っていました。でも、みんなが憧れる職業を目指しているっていうのが、両親にも友達にも恥ずかしくて言えなくて。両親にはマスコミセミナーに行くから、セミナー代が欲しいと途中まで言っていましたね。
2023.05.10(水)
文=松永 怜
撮影=釜谷洋史/文藝春秋