作者の遠忌や大きな歴史的イベントの周年などの機会に、関連展覧会が重なることは珍しくない。だが12月に映画「利休にたずねよ」の公開を控えたこの11月は、まったくの偶然から都内で4件の茶陶展が同時に開催される、惑星大直列のような機会になった。
三井記念美術館での「国宝『卯花墻』と桃山の名陶」(~11月24日)、菊池寛実記念 智美術館では「現代の名碗」(~2014年1月5日)、五島美術館では「光悦 ─桃山の古典─」(~12月1日)、そして今回の記事の主役である、根津美術館「井戸茶碗 ─戦国武将が憧れたうつわ─」展(~12月15日)だ。
まるで井戸をのぞきこむような深さゆえについた名
ずらりと並ぶ展示ケースの中の茶碗は、いずれも渋いベージュ~グレーで、形もよく似ており、何を手がかりに鑑賞すればいいのか、初心者にはいささか敷居が高く感じられるかもしれない。これが「一井戸、二楽、三唐津」と謳われ、わび茶の茶碗の中でもっとも重く扱われてきた井戸茶碗だ。茶碗の底の、まるで井戸をのぞきこむような深さゆえについた名とされるのが「井戸」。より広く言えば、井戸以外にも三島、御所丸、伊羅保、熊川など、朝鮮半島から運ばれたさまざまな陶磁器の中から、日本の茶の湯の茶碗として用いられた「高麗茶碗」の中のひとつだ。16世紀の初め頃に日本へ持ち込まれ、豊臣秀吉が特に好んだことで急激に茶の湯の世界に広がったものの、江戸時代の初期には輸入が途絶えてしまうという、謎の多い茶碗でもある。その井戸茶碗ばかり74件も集めたのが、この展覧会なのだ。
室町時代には中国から輸入された、左右対称の歪みも欠けもない透き通るような青磁や白磁、あるいは星を散らしたような曜変天目、油滴天目などの茶碗が、「唐物」と呼ばれて尊ばれていた。しかし応仁の乱によって貴重な唐物の陶磁器や絵画などの多くが失われてしまった後に、吉田兼好が『徒然草』の中で「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」と記した感覚──均衡を欠いた美を至上のものとする感覚が、奈良の僧・珠光、堺の豪商・武野紹鷗、そして千利休によって、茶の湯の中へ持ち込まれて行く。そうした変動の中で、天文6年(1537)、茶会記に初めて「高麗茶碗」の名前が現れる。いまだ唐物茶碗が主流の時代に、どんな茶碗が使われたのかはわからないが、近年の遺跡出土品の調査から、16世紀後半には斗々屋や蕎麦、そして井戸などの高麗茶碗が日本へもたらされていたことが分かっている。
2013.11.23(土)