ぼくがそう切り返すと、みんながどっと笑った。」

 確かにそうだ。それが台北かもしれない。だが彼らが共有した事件と感情は、もしかしたら日本でもスペインでも、南極でも、人間の暮らすどこにでも当てはまるものではないだろうか。そう、人生は常に回り続け、しかしそれでも我々は生きることをやめられはしない。そんなどうしようもない日々の旅に目を注ぎ続けるがゆえに、我々は東山彰良の作品を手に取らずにはいられぬのだ。

 ある時、小武は学校の友達たちと「なんでも入る壺の絵」を描くことに熱中し、遂には全員の夢と希望をありったけ詰め込んだ「完全無欠なる楽園の壺」の作成に挑戦する。ただそこに紋身街を加えようとする小武は、異を唱える級友たちと対立してしまう――というのが、最終話にして表題作「小さな場所」の幕開けだ。

 思えば、汝南の人・費長房が仙人に連れられて壺の中にある仙境に遊んだ『後漢書』方術伝の故事の如く、世界とは常に壺の中に入るほど小さく、同時に我々がどれだけ足掻いても逃げ出せぬほど大きい。

 大唐の詩人・元稹は「壺中の天地は乾坤の外、夢の裏の身名は旦暮の間(壺の中の天地は人間界の外にあり、夢の中の出来事のようなこの世の名声は、朝夕の間に消えてしまう)」と詠んだ。だが壺の中に入ってしまう天地が同時に世界を凌駕するほど大きいが如く、一日の間に萎むはかない花にも似た人生は、時にうんざりするほどに長い。

「世界中のどの街にもかならず一本はあるだろうと思われる、街の恥部のような細くて小汚い通り」と記される紋身街は、確かに狭く雑然として、うんざりするほどちっぽけな場所なのだろう。だが壺の中の異郷の如く、はたまたこれから大木と化す植物の種の如く、その小さな場所にはこの世のすべてが満ちているのだ。

 小武は国語の宿題として出された課題作文「わたしの街」に取り組む中で、井戸の底に暮らす蛙の物語を作り出す。井戸の水が涸れたことをきっかけに外に出た蛙はみずからにふさわしい場所を求めて旅を続け、ついに大海でクジラと出会う。蛙がどんな結末を選ぶのか、それは作品をお読みいただき、ご自身の目で確かめていただきたい。ただはっきりと断言できるのは「小さな場所」に生まれ育った小武がこの一話において、愛すべきその地を旅立つ日を漠然と意識し始める事実だ。

2023.01.30(月)
文=澤田 瞳子(作家)