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ゲームに例えるなら、ステータスが偏ったキャラクター

 ゲームで例えるならば、ステータスがまんべんなく高いキャラクターではなく、ステータスが偏りまくったキャラクター(=私)を操作していたのに、その状態を認識していなくて、低い方の能力が求められるステージにずっと居続け、ハードモードになっている感じでした。発達障害というフィルターを通して自分を客観視することで、自分の秀でている能力が生かせるステージに移動でき、あとはアイテム(=実生活においては、他者のサポートや電子媒体など)で苦手を補うという発想ができるようになったと思います。

 障害者というと、何か自分とは異質の存在であるという認識をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、診断を受けないということもひとつの選択肢だと思いますし、時代の中で変化していく概念だとも思うので、何が正しいというわけではなく、突き詰めていくと個人の価値観に関わってくることだと思います。

ADHDはアイデンティティのひとつに過ぎない

 大学院以降は当事者であることをオープンにしながら生活するようになりました(とくに理由はなく、当時は発達障害を開示している人に出会ったことがなかったので、どんな会話が起こるのか好奇心がありました)。発達障害の診断は、あくまで私のたくさんあるアイデンティティのうちのひとつに過ぎませんが、自分の駄目さに思考を多く巡らせるのではなく、できることを考える方に移行できたことは、大きな意味のある過程だったと思います。

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コッピーちゃん

1994年、東京都生まれ。東京大学大学院の心理学博士課程に在籍中。成人期のADHDの適応に関する研究をしている。ADHDや発達障害を始めとしたマイノリティの人たちが生きやすくなるような情報や自分の体験を多数発信。Twitter:@kopo_adhd

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2022.12.29(木)
文=コッピーちゃん