シンガーソングライターであり、数々の楽曲提供やアニメ、映画などの劇伴にも携わっているポップバンド、スカートを主宰している澤部渡さん。ディープな音楽ファンであり、漫画、お笑いなど、さまざまなカルチャーを大きな愛で深掘りしている澤部さんのカルチャーエッセイが今回からスタートします。連載第1回は新譜『SONGS』にまつわる、現在と過去を行き来して「僕のセンチメンタル」を探すお話です。

 詞を書く時、情けない話なのだが、部屋があまりに汚く、ノートを広げる場所すらないため、ここ最近はファミレスで書くことが多くなっている。コロナ前だったら深夜営業のファミレスに4冊ほど漫画や小説や詩集を持ち込み、夜明けをめがけてノートに向かっていた。繰り返しデモを聴き、浮かんだ言葉を整理していって、疲れたら休息と刺激の両方を兼ね備え漫画や文学を訪ね、またノートに向き合う。そうしていくうちに詞が書き上がる、というのが大まかな流れだ。コロナ禍の現在、働き方改革などの観点から深夜営業のファミレスはなくなってしまい、部屋のPCで作詞をするなど試したのだが、最近は結局、昼間からファミレスに入って閉店まで粘って歌詞を書く、というスタイルに落ち着いた。

 『SONGS』に入っている曲のいくつかの詞を書いている頃、思うところがあって高校生の頃に好きだった漫画を読み返していた。昔の自分を一度疑うことにしたのだ。そこに至った訳は、コロナ禍の少し前にプリファブ・スプラウトにハマったことに起因する。プリファブは20代前半の頃、何度か聴いたはずなのだがその時は「いかにも80年代みたいな古臭い音」と思ったのか、いまいちピンとこなく、「きっと合わないんだな」と素通りしてしまった。今思えば“ネオアコの名盤”みたいな言われ方が良くなかったんだと思う。

 それから10年が経った頃、京都α-STATIONでパーソナリティを担当しているプログラム「NICE POP RADIO」にカーネーションの直枝政広さんをゲストにお招きした際、2本録りのうちの1本の選曲テーマが「(カーネーションが結成された)1983年以降」というもので、そのことを直枝さんに伝えたら「おっ、じゃあプリファブとかかけるの?」と訊かれたことによって時機が来たような気がしてすぐベスト盤を買った。

 それから、すぐに大好きになれたわけではなかったのだが、少しずつ愛聴盤になり、あるタイミングで「Jesse James Bolero」を聴いて感情が爆発してしまった。その頃の私はCHAGE and ASKAに耽溺したあとだったため、多少音像に時代を感じようが「美しいメロディを前にすれば、現在の視線から見た『古い音』なんていうのは(そう思うこともある意味では正しいのだが、それでも)その音楽に対してマイナスになることなど、ない」と思えるようになっていたのだ。そうして、過去のオリジナル・アルバムを聴き漁っていく段階になり、リマスターされたばかりだった『Jordan : The Comeback』をターンテーブルに載せ、2曲目の「Wild Horses」が始まった時、「このアルバムのただの一音も聴き漏らしたくない」とヘッドフォンをかけ、アルバムを聴き終わる頃には落涙していた。

 そうして「どうして20代前半の私はこの素晴らしい音楽が理解できなかったのか?」という疑問が浮かび上がる。その疑問はこれまでの人生を見つめ直させるほどの効力があった。聴いてきた音楽に関してはその段階で振り返る余地がないように思えたのは、「NICE POP RADIO」の選曲のために自分のライブラリーと向き合う時間が定期的に訪れるからだろう。考えを巡らせていくうちに私は浴びるように漫画を読んでいた10代の頃の自分にぶつかった。ここを見つめ直せばなにか答えが出るかもしれない。そうして新しくできる歌だってあるだろう、と。しかし、その後すぐ新型コロナウイルスが世界を席巻、ヒットチャートよりホットでセンセーショナルな日々が我々の神経をすり減らし、私の創作に対するモチベーションなんてこれっぽっちもなくなってしまっていた。

2022.12.15(木)
文=澤部渡
イラスト=トマトスープ