きらびやかな来歴だけで小説が1冊書けそうな作品がずらり
冒頭から目を奪われるのは、重要文化財・国宝指定の洛中洛外図全7件が一堂に会した展示室である(展示替えあり)。洛中洛外図とは、まず扇面から始まり、やがて屏風を利用した大きな画面の中に、京都の洛中洛外(市中と郊外)にわたる名所や霊地などの四季の景観や、そこで生きる公家、武家、寺社から市井の人々までの姿を描き込んだ絵図のこと。中でも「上杉本」と通称される狩野永徳筆の《洛中洛外図屏風》(国宝)、そして「舟木本」と通称される《洛中洛外図屏風》(重文)は、今回もっとも注目を集める作品のひとつ。
「上杉本」については何度かこのコーナーでも言及しているが、 (おそらくは)若い頃の永徳が、将軍足利義輝の注文に応じて描き、義輝の死後に行き場を失っていたものが、何らかの理由で信長の手に渡り、信長から上杉謙信へ贈られたという、そのきらびやかな来歴だけで小説が1冊書けそうな作品だ。
花の御所の隣にあって、室町幕府の補佐的な立場にあった相国寺の、七重大塔(足利義満が創建するも、15世紀初めに焼失。現存していれば全高約109メートルという、日本で最高の仏塔であった)から見下ろした景観だとも言われる「上杉本」の京都。重厚な輝きを放つ金雲の間には、公家や武家の邸宅、寺院、御所など、京都のランドマークが多数描き込まれ、2500人近い登場人物たちは、みな豊かな表情をたたえている。後年、数十メートルもの巨樹を、城郭内に描きまくった同じ絵師とは思えないほどの、細密な描写に驚かされる。
なるほど、さすが洛中洛外図の最高峰、といわれるだけのことはあるが、上杉本と同じくらいのインパクトを持ち、しかしまったく違う魅力を見せてくれるのが「舟木本」だ。この屏風については、長い間筆者問題が論争されてきたが、今回の展覧会ではっきりと「岩佐又兵衛筆」を宣言。論争に決着をつけた。
展示室へいたるアプローチに設置された4面のスクリーンには、この舟木本の高精細画像がクローズアップで映し出される。秀吉が建立した方広寺大仏殿前でナンパにかまける男たち、その方広寺へ参拝するためにかけられた五条大橋を押し渡る、花見の宴を終えてへべれけに酔った集団、道ばたで遊女に戯れかかる男、商店の店先をそぞろ歩く南蛮人たち──。屏風全体にちらりと目をやる程度では見逃してしまう多彩な人生模様はしかし、どの一角を切り取っても一篇の短編小説が書けそうな精彩に満ちている。
この屏風の筆者とされる岩佐又兵衛とは誰だろう。近年すっかり有名になってしまった伊藤若冲ほどの知名度はないものの、同じ辻惟雄『奇想の系譜』に取り上げられた絵師の一人として、名前くらいは聞いたことがある、という人もいるだろう。織田信長の配下の武将、荒木村重の子として生まれるが、父が信長に反旗を翻したため一族郎党は惨殺。絵師としての技術だけでなく、和漢の教養を身につけ、当初は京都で活躍し、福井で20年以上を過した後、晩年は江戸で送った。
江戸時代初期、ままならぬこの世(=憂世)を徹底的に洒落のめし、刹那的な楽しみに没頭して、「浮世」として生きよう、という感覚が広がる中でもてはやされたのが、「浮世又兵衛」とあだ名された、又兵衛その人だった。男女の遊楽場面を中心的な画題とする風俗画が爆発的に流行する中で、まず又兵衛が、次いで江戸に菱川師宣が出て、やがて浮世絵という江戸時代を代表するジャンルが作り上げられていった。おそらくは京都在住時代、都市に生きる人々の姿を「洛中洛外図」として生々しく写し取った又兵衛は、だからこそ浮世絵の先駆けと呼ばれるのだ。
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2013.10.26(土)