思い立ってから、京都、高瀬川沿い西木屋町にある「瓢正」さんに、食事に行きました(母が何かを思って連れて行ってくれたんだと思います)。「瓢亭」(400年の歴史を持つ、京都の老舗料亭)で料理長をされていた方が、「瓢」の一字をもらって独立されたお店です。鯛の笹寿司が有名で、ご存知の方も多いでしょう。
そのカウンターでご主人の仕事を見ながら食事をいただき、魚を扱う「手」や、お椀を洗われる「手」を見て感心し、こういうところで仕事をしたいと思ったんです。ご主人の手は、フランスでは見たことのないような優しい料理をする人の手でした。私にないもの、足りないものはこれだと思ったのです。
その日はそのまま帰ったのですが、翌日は一人で出かけ、ご主人に直接「ここで仕事させてほしい」とお願いしました。小さなお店で居場所がないこと、タイミングが合わず無理だということでしたが、それから、間を置いて、もう一度お願いに行きましたら、ご主人が言うには、うちではおせち料理もしておらず仕事の幅が狭いから、ここで勉強することはないですよと丁重に断られましたが、「がんばりなさい」と最後にしっかり手を握ってくれたご主人の柔らかい手を今も忘れていません。
その後、京都の別のお店に決まりかけて、私もそのつもりでいたのですが、結局ご縁があって大阪の「味吉兆」に入りました。「吉兆」創業の地である大阪・北堀江の土地で、予約だけの料理屋として「味吉兆」の新店舗が開店したばかりでした。
味吉兆主人・中谷文雄
味吉兆の主人、中谷文雄は、吉創業者の湯木貞一の右腕、湯木をして味付け日本一と言わしめた、吉兆で総料理長的役割を果たした人です(以下、敬称を略させていただきます)。ご存知の通り、湯木は私たちが今「日本料理」と呼ぶものを完成させた人物です。控えめに言っても、和食料理人、日本料理屋で、吉兆の影響を受けていないものはないと言えます。
湯木自身は、調理場の調理台に座布団を敷いて座り、調理場全体を見渡している存在で、実際にそうしていたのですが、中谷のご主人は神戸や大阪を中心に、その後京都や東京などに吉兆が店を構えるときはいつも、立ち上げから先頭に立って働く立場でした。吉兆出身の料理人が独立することもありましたが、親族以外で、湯木貞一から吉兆という名をもらって、暖簾分けを許されたのは「味吉兆」の中谷文雄だけです。その活躍ぶりが次世代に語り継がれる、レジェンドです。なにも言いませんでしたが、父もこの人ならと思ったはずの方でした。
2022.05.29(日)
文=土井 善晴