オランダ貴族の血を引いた母

 オードリー・へプバーンは1929年、ベルギーのブリュッセルで生まれた。父はイギリスの銀行家で、母はオランダ貴族の血を引いていた。初等教育を英国で受け、バレエも早くから学んでいたが、170センチ近い長身が災いして、プリマへの道は早々に閉ざされる。

 が、冒頭に述べたとおり、すべては『ローマの休日』で変わった。新人同然でいきなりアカデミー主演女優賞を得たへプバーンは、その後の10年をめざましい速度で駆け抜けていく。なによりも、共演した男優陣が豪華ではないか。

『麗しのサブリナ』(1954)ではハンフリー・ボガート。『昼下りの情事』(1957)ではゲイリー・クーパー。『パリの恋人』(1957)ではフレッド・アステア。『シャレード』(1963)ではケイリー・グラント。『マイ・フェア・レディ』(1964)ではレックス・ハリソン。

 圧倒的な顔ぶれだ。結論からいうと、20歳も30歳も年上の名優たちがこぞってへプバーンを引き立てている。いや、少々のぎくしゃくはあっても、名優たちが思わず背中を押したくなるような気配を彼女が備えていたというべきか。一例が、名優の手を借りていない『ティファニーで朝食を』(1961)だ。この作品が印象的なのは、へプバーン本人が醸し出す微妙な陰翳のためだ。

 

劣等感を抱いていたヘプバーン

 ただ、ヘプバーンは自分の容姿に劣等感を抱いていた。足が大きい(25センチ)、眉が濃すぎる、顔の鰓(えら)が張っている、色気が足りない……傍から見れば贅沢な悩みばかりだが、ヘプバーンの「一歩引いた堅実さ」は、もしかするとこの劣等感の産物かもしれない。つまり、劣等感ゆえに彼女はでしゃばらず、劣等感ゆえに彼女は相手役を立てた。

 その結果、ヘプバーンは主演した映画を面白いものにした。ローマを光らせ、パリを輝かせ、クーパーやアステアやグラントの渋さを際立たせた。しかもその謙虚さが、めぐりめぐって彼女自身を華やかに彩る。不思議な化学変化だ。それともやはり、ヘプバーンは一種の魔法を使っていたのだろうか。

2022.05.20(金)
文=芝山幹郎