徹底的に“人の感情”にフォーカスした構成

 例えば、平清盛の五男・重衡(CV:宮崎 遊)は、戦のさなかにやむを得ず寺を焼き討ちした自責の念にさいなまれ、清盛の孫・維盛(CV:入野自由)は、戦場に出たのちPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような状態に。

 清盛の次女である徳子(CV:早見沙織)は望まぬ結婚に幾度となく苦しめられる。平家の将来を憂い、悪夢にうなされ続ける清盛の長男・重盛(CV:櫻井孝宏)含め、諸行無常(万物は流転する)の中であがき続ける人々の儚さがどこまでも続いていくのだ。

 つまり、事件や出来事>人々ではなく、あくまで史実をベースにした人々の感情の変遷=群像劇であるということ(山田監督によれば、原作で数行のエピソードであってもアニメでは広げられているものもあるのだとか)。

 それゆえに『平家物語』は共感性が抜群に高く、運命に翻弄される人々を近くに感じることができる。極端に言ってしまえば、歴史をほぼ知らなくとも描かれている“人”や“感情”に興味を抱けるつくりになっているのだ。

 その代表格が徳子で、「私は世界が苦しいだけじゃないって思いたい。だから私は赦して、赦して、赦すの」(第5話)など、時代や環境に押さえつけられようとも、凛とした芯の強さを発揮する名ゼリフが多々。逆境の中でどう生きるかというテーマは、現代の我々にも刺さるものだ。

アニメオリジナルの主人公、びわの存在

 また、本作の最大の特徴といえるのが、彼らの栄枯盛衰を傍らで見守る存在として、琵琶法師の少女・びわ(CV:悠木 碧)を主人公に据えていること。

 「平家物語」自体、琵琶法師たちによって語り継がれてきた物語であり、平家と行動を共にしていた琵琶法師がいた、というアニメならではのアレンジは実にスムーズだ。また、びわは平家のしきたりや面子・重責に掟といったものに左右されないため、彼らの行動に対してフラットな反応を示す。

 それはそのまま、現代に生きる私たちが当時の平家の人々に抱く感情と直結しており、びわは物語と視聴者をつなぐガイド的な役割も果たしているのだ。山田監督はびわを「観ている方の代弁者、目になってくれる存在」と評している。

 さらに興味深いのは、びわを“能力者”として設定していること。彼女は右目で未来を見通すことができるのだ(これもまた、先の展開を知っている私たちとリンクする)。これにより、物語と映像面の双方でよりアニメ的なダイナミズムが生まれている

 例えば、びわが徳子と出会った際にふとしたことで左目が隠れてしまう=能力が発動し、徳子の残酷な未来を見てしまう、といった展開など、アニメファンにとってなじみ深い「異能力もの」としての面白さを大胆に入れ込んでいる点が秀逸だ。

 また、諸行無常を体現する周囲の人間に対してびわが(見た目含めて)ほぼ変わらない、という点もギャップを生み出す面で非常に機能しているが、1点だけ大きな“変身”が生じる演出も上手い。

 第4話のラストで、重盛が持っていた「亡者が見える」能力を受け継ぐのだ。これにより、びわは右目で未来、左目で亡者を見られるというダブルの能力者となる。異能力ものにおいて“能力の覚醒”は超重要なイベントの一つだが、それをカバーして物語のスケールを広げつつ、「大切な存在が亡くなり、能力を継ぐ」悲劇性ももたらしている妙手といえるだろう。

 ちなみに、琵琶法師を主人公にするというアイデアは山田監督が吉田氏に提案し、そこから先は吉田氏が中心となって進めたそうだ。

2022.02.20(日)
文=SYO