北条氏をリーダー論として読む
私たち世代でも、那須与一の弓、源義経の八飛びなど『平家物語』のエピソードに多くの人が親しんできました。私の子供の頃(今から五十年以上前)ですと、永井路子さんが、北条氏を題材に『炎環』『北条政子』を書き、その後、大河ドラマ「草燃える」の原作となっています。今回のブームは、源平合戦、鎌倉時代に現代の光を当てた再発見ともいえるのです。
かくいう私も北条氏をどのように紹介すれば、さらに多くの現代の読者に知ってもらえるか常々考えてきました。その一つの手法が、この時代の北条氏の生き方を、現代につながる日本型リーダー論として読むことです。
北条義時とはどのようなリーダーだったのでしょうか。義時は決断をするときに、人の意見に耳を傾け、その意見に従った形を作るのが上手いリーダーでした。1221年承久の乱が起こると、義時たち武士は鎌倉の守りを固めて、京都からの敵を迎え撃つことにしました。ところが、決定直後に、実際には戦争に参加しない人たちに意見を求めたことが歴史書『吾妻鏡』に記されています。すると京都出身の文官トップの大江広元や義時の姉の北条政子は、「今すぐにでも京都に攻め上った方がいい」と主張したのです。最終的に義時は、これを受け入れ、息子の泰時に京都を攻めさせて勝利しました。
しかしなぜ、簡単に決定を翻したのか。本音では最初から、広元や政子と同じ意見だった可能性も否定できません。「人の意見を聞く」というのは、一筋縄ではいかない側面があります。様々な主張の中で、自分が選びたかった選択肢だけをピックアップしたり、そもそも自分と同じ考えの人だけが話をできる状況を作ったりすることも可能です。つまり「意見を聞いた」というアリバイ作りをしているとみることもできるのです。「失脚=死」の厳しい時代を勝ち残った北条氏から学べるものは、まだまだあると考えています。
◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2022年の論点100』に掲載されています。
2022.01.22(土)
文=本郷和人