ショパン国際ピアノコンクールで2位受賞、日本人として51年ぶりの快挙を成し遂げたピアニスト反田恭平さん。まるでサッカー選手のひと蹴りのように、クラシック音楽で世界を熱狂させることを夢見て前進し続ける。ピアニストを目指すようになったきっかけやオーケストラの会社を起ち上げた理由を聞きました。

サッカー選手のひと蹴りのように、世界を熱狂させるクラシック

――小さい頃は、サッカー選手を目指していらっしゃったと伺いました。

 ハイハイしている頃からボールを追いかけていたんです。当時、名古屋に住んでいて、サッカーチームのキャプテンを務めたり、名古屋のドームで試合をしたりしていました。その時は、努力すればサッカー選手になれると思っていたんですよ、ベッカムに憧れて。

――サッカー選手の夢を追いかけるのをやめたのはなぜですか?

 ずば抜けた才能の子がいることに気付き始めて、小学校高学年の頃には違和感がありました。ある時、試合中に手を骨折して病院に行ったんです。当時、宮本恒靖さんが鼻を骨折してバットマンみたいなマスクをしていて、お医者さんに「手より鼻のほうが折れたら痛いよ」と言われて。手の骨折でもものすごく痛いのに、もうこれ以上は無理だと思ってあきらめました(笑)。

――ピアニストを目指したのはどんな経緯だったんですか?

 4歳の頃からエレクトーンを習っていて、小学生になってからも近所の音楽教室に通っていました。

 サッカーをやめようと決めた時に、振り返るといつもピアノがあったなと思ったんです。ここまで長く続けられたってことは、ピアノが好きなのかもしれないと気付いて、じゃあピアニストになってみようと思いました。

――反田さんのピアノの才能に、周囲は気付いていたんでしょうか?

 友達から「ピアノ上手いよね」って言われることはあって、「ああ、ありがとう」みたいな(笑)。学芸会のピアノは担当していましたし。当時のピアノの先生が本当に子ども好きで、好きな曲を持ってきて好きなように弾いてごらんという感じで、すごく楽しく弾いていたんですが、気付いたら、意外に弾けるようになっていました。

 サッカーをやっていたから、運動神経というか、リズム感みたいなものは培われていたのか、いざ弾いてみると、指もすごく早く回るし、飲み込みが早かったようです。

 「もう教えられることはないのでピアノの教室を変えた方がいい」と先生が仰ってくださって、12歳の時に桐朋学園大学音楽学部附属 子供のための音楽教室に入りました。その時の同期に、小林愛実さんがいたんですよね。

――ベッカムのように、その当時ピアノの世界で憧れの人はいたんでしょうか?

 いなかったですね。ひと蹴りで世界が熱狂するような宮本選手やベッカムが僕にとってのヒーローで、ピアノはあくまでも女の子が弾くものというイメージだったんです。

 父親もいわゆる日本男児の無口な人で、「お菓子いる?」とか「ごはんできたよ」とか、1週間に2、3回しか会話をしない。「なんでピアノを弾いているのかわからない」と言われたこともありました。

――そんな家族の反応が変わった瞬間ってあったんですか?

 母親は最初から「全面的に好きなことをやりなさい」と、むしろ息子がピアノをやっていることが嬉しかったみたいです。

 父親との関係は、高校受験がひとつのターニングポイントでした。コンクールに出てはいたけど、奨励賞や特別賞ばかりで表彰台に上がれたことがなかったので、父親は僕がピアノを趣味でやっていると思っていたようで、「まだ勉強は間に合うけど、高校受験はしないのか」と言い出したんです。

 僕が「音楽の高校に行く」と言ったら、「数字が書いてある賞状がひとつもないのは、その程度のレベルなのではないか」と、痛いところを衝かれました。1位を取ったら音楽学校に入ることを約束して、中学3年生の進路が決まるまでの期間に受けられるコンクールをすべて受けて、1位を取って表彰状を突き出して納得させました。

 それからも「プロで活躍しないならピアノをやめてシフトチェンジしろ」と言われ続けたんですが、高校3年生の時に日本音楽コンクールで1位を取ったことで、そこからキャリアも父親の反応も少しずつ上向きになった感じですね。

――コンクールは、音楽の道を納得させる手段だったのですね。

 自分で自分の価値を決めるというのは大事なことだと思うけれど、大人を納得させるにはコンクールが最速の手段だったし、1位を取ったら周りの対応も変わりました。

 でもその反面、音楽というものは数字では決められない価値があると思っています。今の時代、コンクールに出ないでYouTubeなどで有名になってオファーが来るというのもあるかもしれないし。僕にとっては、留学先の先生に出会ったり、デビューに繋がったりしたので、コンクールに出たことは結果的に良かったです。

“人生のラストチャンス”——すべてを背負って挑んだコンクール

――どんな気持ちでコンクールに挑んでいらっしゃるんですか?

 コンクールってリスクでしかないわけです。唯一のメリットは、知ってもらえることくらい。プロの演奏家として活動していて、有り難いことにチケットが取れないと言われたりして、そんな中で、もしダメだったら帰国できないなと思っていました。逆に学生の方がプレッシャーもなく、受けやすいんですよね。

 でも今回のショパン国際ピアノコンクールは、年齢的にも人生でラストチャンスで、受けなかったらきっと後悔するなと思ったんです。死ぬ間際に、「ショパンコンクールに出とけば良かった……」って言っている自分が見えた(笑)。悔いを残すのは嫌なので、すべてを背負ってでも出てみようと思いました。

――ショパンコンクールでは手応えみたいなものを感じられていたのでしょうか? 

 ファイナルでは手応えがありましたね。会場にいる人の集中力もものすごかったし、ブラボーって絶対に喝采されるだろうなって。

 最初は試されているような目線も感じていたけれど、1楽章が始まったくらいから会場の雰囲気が変わったのが伝わってきて、3楽章の頃には前列の人が揺れながら聴いているのが見えて、最後にはオーケストラも一体となっていて……あの空間で、みんなで音楽を作ろうという空気を感じていました。

 弾き終わる前には、これは僕がいままで憧れていたドキュメンタリーとかでよくある瞬間だ! と思って(笑)。バーッと会場が沸き立つ瞬間を待ち焦がれてきて、最後の音を弾いてあの喝采を浴びるのは、本当に小さい頃からの夢だったんですよね。

2021.12.24(金)
文=鈴木桃子
撮影=角田航
スタイリング= 于洋
ヘア&メイクアップ=伏屋陽子