JL&Cからピンククラウドになると、オリジナル・アルバムだけでなくソロ作品のリリースも契約の中に含まれていたこともあり、制作のスケジュールに追われるようになっていった。本来なら最低でも10曲ほどデモを作ってアルバム制作に臨まないといけないのに、2~3曲しかない状態でスタジオ・ワークに突入することも多くなった。タイトな発売スケジュールという時間的な制限も重なって、音楽的な表現をしっかりと突き詰められない場面も増えていったんだ。結局、バンドだけでなく各メンバーのソロ作品も俺がプロデュースすることになり、すべてに対して本気で取り組んでいった結果、ものすごく俺自身が消耗してしまった。

 すべてのアイディアを出し切ってしまい、音楽的な引き出しも空になった。それまで楽しいと思ってやっていた音楽を作ることが、だんだんと「作業」に変わってしまったんだよ。ちょうどその頃、銀座にSmoky Studioという制作拠点を作り、毎日、地下鉄に乗ってスタジオに通った。こんなにも残業の多いサラリーマンいないでしょってくらい、余裕のない日々だった。そして世の中はギターではなくシンセサイザーの時代に移り変わり、心身ともに疲弊した俺は、85年に日本を離れてロンドンに渡り、新たな生活をスタートさせることになる。

 

久しぶりに「Char」から「竹中尚人」に戻った

 今思い返してみると、イギリスに行った時の自分は、精神的にも肉体的にも、もしくは能力的にも……窮地に立たされていたんだと思う。渡英してからの1~2カ月は、毎日のように酒を飲んだくれて街をブラブラしていた。コヴェント・ガーデンでストリート・ミュージシャンの演奏を見たり、ライブハウスに行ったり、サッカーを観戦したり、ノッティングヒルのレゲエ・フェスティバルに足を運んだりしながら日々を過ごすうちに、ある日突然「作曲しよう」という気持ちが芽生えたんだ。

 イギリスにはギターも持たずに行っていたから、急遽日本からアコースティック・ギターを送ってもらい、オモチャみたいなカシオのシンセサイザーなんかを使ってデモを作り始めた。今思えばアイディアが枯渇したのではなく、全部出し切ったことで必然的に何かを蓄積しなきゃいけないと、無意識のうちに音楽的な刺激を求めていたんだと思う。イギリスで過ごした3~4カ月は、当時の俺にとっては何年にも感じるくらい濃密な時間だった。デビュー以来、久しぶりにCharから竹中尚人に戻った瞬間だったかもしれない。

2021.12.19(日)
文=Masaya Bito