俺は長い間ずっとトリオ・バンドにこだわっていて、デビューする前から「加部正義とジョニー吉長と一緒にバンドがやりたい」なんてことを漠然と考えたりもしていた。そうこうしているうちにマーちゃんは行方知れずになり、「噂によると死んだらしい」なんて憶測も飛び交うようになった。俺のほうは自分のバンドもなくなり、芸能界という世界でギターを手にひとりで仕事をするようになっていった。阿久(悠)さんと出会ったのもこの頃だね。
デビューしてから2年が経った1978年、3枚目のアルバム『Thrill』を作っている頃の俺は、将来の自分キャリアに対して漠然とした不安を感じていた。自分がやりたい音楽性についてはもちろん「これから先の未来にバンドがどうやって生きていくべきか?」ってことを模索していた時期で……「ひょっとしたらこのまま燃え尽きて終わるんじゃないか?」という考えが頭をよぎることもあった。プロデューサーやレコード会社のスタッフのようなサポートしてくれる人たちとも前向きな話ができず、チームとしてひとつにまとまっていない状況だったんだ。
そんな時に『Thrill』で一緒にレコーディングをしたゴダイゴをバックにライブ・ツアーをやることになり、そこでミッキー(吉野)といろんな話をしたんだ。彼らはいろんなアイディアを持ちながら、何年も先のビジョンも思い描いて活動していて、理想とする未来に向けて自分たちからアクションを起こしていた。俺はそんな彼らのことが羨ましかった。
「俺、ベース?」マーちゃんはベースを持っていなかった
話の流れの中でミッキーが「マーちゃんが日本に帰ってきている」と教えてくれた。どうやらアメリカの美術大学へ行っていたらしい。俺はすぐにマーちゃんの実家に電話をかけて「何もやってないんだったら一緒にバンドやろうよ」って声をかけたんだ。そしたら「俺、ベース?」って言われてね。当時、マーちゃんはベースを持っていなかったんだよ。そこで俺がESP製のJBタイプを用意して渡したんだ。
2021.12.18(土)
文=Masaya Bito