カペルは洗練された趣味の持ち主で、彼との生活を通してシャネルのセンスはいっそう磨かれていきました。2人で出かけた先の、漁師が着ていた丈夫な布地を高級服に使用したり、ヨットに因んだ柄を取り入れるなど、大胆な発想も2人の楽しい思い出が絡んでいる模様。

 1915年、ビアリッツに本格的な店を出した彼女は、さらに多くの上流階級の人々や芸術家とも知り合っていきます。時々アヴァンチュールもあり、ロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公とはロマンチックな関係を結びました。しかし本命はあくまでカペルで、彼女は結婚を望みましたが、身分の違いが障害となり、カペルは1918年に英国貴族の令嬢と結婚します。

 しかしその後も2人の関係は続きました。それが終わるのは1919年のクリスマス直前に、カペルが交通事故で落命した時でした。シャネルは悲嘆にくれ、一時は店を閉めることも考えますが、けっきょくは店が2人の生み出したものだと思い直し、仕事に邁進することで悲しみを克服していきます。

 

芸術家との交流、広がる人脈

 恋もさることながら芸術家との交流も彼女の心を豊かにし、仕事はより深く幅広いものとなっていきます。シャネルはバレエ・リュスの主宰ディアギレフと親交を深め、バレエ・リュスの舞台衣装をデザインして評判を高めます。またディアギレフを介して作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーと知り合い、1920年の『春の祭典』公演を援助したりもします。

 シャネルの人脈はどんどん広がっていきます。パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ミジア・セール、ポール・モラン、ジャン・ジロドゥー、エリック・サティらも彼女の家を訪れ、さらには映画スターやボクサーまでやって来ました。ポール・モラン言うところの「700人のパリの名士たち」のなかでも特に愉快な連中が、こぞって彼女の許(もと)を訪れたのです。

 彼女は第一次世界大戦後の開放的で自由な空気を大いに活用して、社会進出し、自己主張する女性たちを引き立てるボーイッシュなデザインを次々に発表して1920年代のファッション界を主導、多くのお針子(はりこ)を擁するアトリエ(仕立て工房)を経営しました。

2021.12.07(火)
文=長山靖生