決定打は、少々最近になるが、07年の《大阪LOVER》だ。あの曲は大阪人の心をわしづかみにする。私のような、関東生活年数が大阪生活を上回った「えせ大阪人」であっても「♪大阪のおばちゃんと呼ばれたいんよ」のところで、毎回涙腺が決壊しそうになる(いや決壊する)。逆に「えせ」だからこそグッと来るのかもしれないが。
涙腺にグッと来るのは、吉田美和の「泣き節」にも秘密があろう。昔、大滝詠一がラジオで「コニー・フランシスのようなイタリア系の泣き節は日本人好み」という意味合いのことを言っていたが、《すき》《サンキュ.》《大阪LOVER》のボーカルは、明らかにその「イタリア系泣き節」だと思う。
「間口の広さ×トラップの深さ」にさらに「泣き節」をかけ合わせたら、その解の数値は無限大だ。無限大は無敵だ。ドリカムが90年代を連れてくる。「90年代」と書いて「ドリカム」と読む─。
「EPICソニー史」を舞台化するとすれば、第1幕は、佐野元春から始まる80年代前半。第2幕は渡辺美里から始まる80年代後半。そして第3幕が、この《うれしはずかし朝帰り》からになろう。
しかしアルバム『The Swinging Star』(92年)が何と320万枚を売り上げるフィナーレまでの第3幕と、第1幕・第2幕との段差は激しい。別の物語という趣きさえする。言わばこの曲から、「シン・ゴジラ」ならぬ「シン・EPICソニー」の歴史が始まるのだ。
ドリカム《笑顔の行方》に見る中村正人「下から目線」作曲法
それからもうひとつは、そのころ50歳ちょっと前で、定年まで十何年あるでしょ。エピックはうまくいっているから、自分も部下も誰もクビにならない、そういう部下との関係がさらに十何年続くと想像すると気持ち悪いじゃない。(中略)だからこれは一回、おれが辞めたほうがいいかなと思って、1988年にエピックを辞めて。
EPICソニーの黄金期を築いた「ロックの丸さん」こと丸山茂雄の著書『往生際―“いい加減な人生”との折り合いのつけ方』(ダイヤモンド社)からの一節である。80年代後半におけるEPICソニーの変容には、丸山茂雄という精神的支柱の喪失も影響しているのかもしれない。
2021.11.23(火)
文=スージー鈴木