実在の事件に踏み込んでいくということ

 2016年1月。執筆中の藤野は、テレビから流れてきたニュースを観て血の気が引く。京本が通う美術大学に刃物を持った男が侵入し、12人が死亡・3人が重傷を負う通り魔殺人事件を起こしたのだ。犯人の男は、「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」と供述。犠牲者の中には、京本も含まれていた――。

 この展開を読んで、2019年に起こった、京都アニメーション放火殺人事件を連想した方も少なくないことだろう。「被害妄想」「パクった」といった事件と関連するワードも並び、読む者の心を強く、深くえぐってくる。

 こうした実在の殺傷事件を想起、あるいは基にした作品は、漫画に限らず、むしろ映画というジャンルにより多く存在するといえるかもしれない。例えば、2021年の第93回アカデミー賞短編アニメ賞を受賞した『愛してるって言っておくね』では、銃乱射事件で娘の命を奪われた夫婦の物語が描かれた。

 2003年の第56回カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドール&監督賞に輝いた映画『エレファント』は、コロンバイン高校銃乱射事件をテーマにした物語。

 その他にも、2014年の映画『君が生きた証』や、秋葉原無差別殺傷事件の犯人をモチーフにした『ぼっちゃん』(2012)など、枚挙に暇がない。

 乱暴な意見ではあるが、このようなある種の実写的な展開が挿入されることにより、『ルックバック』は現実との接点を強く持った作品へと変化していく。そしてこの部分が、「フィクション(漫画)が現実(悪意)にすり潰される」構造を刷り込み、逆説的にここから待ち受ける「作り手が現実に叛逆する」布石として機能することになる。

 つまり、この物語が到達するところは、その先にある。それが、先ほど述べた「作り手の存在意義」だ。

 亡くなった京本の実家を訪ねた藤野は「私が漫画を描いたせいで京本が死んでしまった」と絶望し、京本の部屋の前で泣き崩れる。ここが、分岐点。それまでずっと「その世界のリアル」で構成されていた『ルックバック』は、このシーンを境にまたひとつ進化を遂げるのだ。

 その先に描かれるのは、藤野と京本の「あり得たかもしれない未来」であり、「現実とも夢ともつかぬ祈り・願い」――つまり、「創作」の真髄でもある。

 現実は残酷で、善人や弱者に容赦なく牙をむく。だが、紙とペンと想像力があれば、現実を脚色することも、改変することも、時空を飛び越えることだって、何でもできる。それが、我々が持つ創作の“力”なのだ。

 藤野は「京本を部屋から出してしまったことで、悲劇が訪れた。私が漫画を描いたからだ」と打ちひしがれるが、京本は漫画を通して藤野という親友と出会い、外の世界に再び戻ることができた。

 その果てに「自分一人で生きてみたい」という自我の芽生えがあったのだと考えると、彼女は藤野と出会ったことで確かに救われていたのだ。断じて、藤野の“せい”ではない。

 そのことを示すように、藤野の元に「背中を見て」というタイトルの4コマ漫画がはらりと落ちてくる。これは、本作のタイトルでもある「Look Back」にも通じる。この言葉自体には、「回顧・追憶」の意味合いが含まれるが、本作においては大きく分けて二つの意味が込められているように感じる。

2021.07.23(金)
文=SYO