「生きるかなしさ」に挑む作り手たち

 視聴者はしんどいものを見たくないけれど、作り手はそういうものを好んで書こうとする。かつて、脚本家・山田太一は1991年にアンソロジー『生きるかなしみ』を編み、そのまえがき「断念するということ」でこう書いた。

〈 そして私は、いま多くの日本人が何より目を向けるべきは人間の「生きるかなしさ」であると思っている。人間のはかなさ、無力を知ることだという気がしている。〉

 山田太一はドラマ界の神のような存在だから、彼の言う「生きるかなしさ」から目を逸らすべきではないと今なお、作り手は果敢に山田が書いてきたようなものに挑みたくなる気持ちもあるだろう。

『モネ』の場合、東日本大震災で被害を受けた気仙沼が舞台で、百音の悩みはそこに起因している。『コント』は中浜の妹も高校時代に野球部のマネージャー活動で燃え尽きてしまっているし、春斗の兄は引きこもりだった。『とわ子』では、恋をしないアセクシュアルな人物やヤングケアラーが登場した。どのドラマにも現代社会の問題が盛り込まれている。

 だが前述したように、書き手がどんなに望んでも、受け手が好まなければ成立し辛い。そこで、作り手は哀しみの活き造りは控えはじめた。かなしい主人公を描きながらも、前述したミステリー仕立てでエンタメ化してみたり、もしくは、かなしい人たちをどうやわらかに包み込むかに腐心しはじめているのである。

 

互いに踏み込まず、察し合う仲間たち

『コント』も『モネ』も『とわ子』も直接的なしんどい描写は少ない。主人公たちがふわっと詩のように虚ろな瞳をして、その瞳の奥や、表情から、視聴者が読み取りたい感情を勝手に読み取るような余白になっている。さらに、しんどい経験を癒やしてくれるような、仲間や知人や家族の空気を含んで柔らかいタオルのように肌にやさしい関係性が描かれる。

『モネ』や『コント』や『とわ子』では登場人物たちが終始一貫して塞いでいるわけではないし、他者との関わりを閉ざしているわけでもなく、感じよく振る舞い、時には笑顔になるが、ふとした時、瞳が虚ろになる。「社交的な陰キャ」という感じである。

2021.06.17(木)
文=木俣 冬