1960年、慶尚北道・奉化(キョンサンブクド・ボンファ)で生まれたキム・ギドクは、貧しい環境のため、小学校卒業後、公式学歴として認められなかった農業学校を出て、ソウルの工業団地を転々としながら、工場労働者として生活した。『嘆きのピエタ』の舞台となった清渓川(チョンゲチョン)は、彼が15歳の時、工場生活を送っていた場所でもある。
学校に進学した同年代に劣等感を感じていたキム・ギドクは、現実から逃れるかのように、20歳で海兵隊に志願し、下士官として5年間服務する。除隊後は神学大学に進学し、牧師になることを夢見て、視覚障害者福祉施設で視覚障害者の母親と一緒に生活する。1990年、30歳のキム・ギドクはもう一度現実から逃げるようにパリへ絵画の勉強に発った。街の画家として活動してきた彼の人生を変えたのは、パリで見た2本の映画だった。
「巨匠」から「破廉恥漢」へ
「忙しすぎて映画を見る余裕がなかった」というキム・ギドクは、32歳の時に初めてアメリカ映画『羊たちの沈黙』とフランス映画『ポンヌフの恋人』を見た。映画に夢中になった彼は、帰国後シナリオ学校に登録し、夢中でシナリオを書き続け、1995年『無断横断』というシナリオが映画振興委員会公募に当選する。
そして翌年、『鰐 ワニ』を以て監督としての第一歩を踏み出した。初めて映画に接してからわずか4年後のことだ。名門大学を卒業した、いわゆる社会のエリートたちやブルジョア出身の監督たちが主流だった韓国映画界で、キム・ギドクの登場は衝撃的でありながら警戒の対象だった。無学に近い学歴や正式な映画教育を受けることができなかった彼の作品は、徹底的に無視されるか、厳しい評価を受けた。特に、彼の映画で描かれる極端な暴力性について、韓国メディアは不快感を隠さず、暴力性の源泉を彼の生い立ちに求めるような記事が殺到した。
キム・ギドク本人も自らを「劣等感にとらわれた怪物」と表現するほど、学閥と出身に対するコンプレックスがあった。そのせいで自分が主流映画界や評論界から差別を受けているという認識も強く、韓国メディアのインタビューを極度に敬遠した。
2021.05.16(日)
文=金 敬哲