会話よりも大事な怒涛のモノローグ

 坂元裕二の脚本の魅力は、何と言っても「会話劇」。登場人物はいつも饒舌で、上辺の言葉だけでなく本心までもべらべらしゃべります(だからとてもめんどくさくて愛おしいキャラクターになっている)。その会話によって起こるちょっとした意見のズレ、共感、対立などがコミュニケーションを加速させ、物語を進めています。

 しかし、今回の絹と麦はそうではありません。ドラマ的なキャラクターではなく、あくまで市井の人間で、好きなカルチャーを共通言語にしてコミュニケーションをとるのが精一杯なんです。そこで重要なのが、モノローグ。ふたりの5年間の日々は、絹と麦それぞれのモノローグにより展開されていきます。

 モノローグとは、登場人物が相手との会話なしに心情や考えを述べる「ひとり語り」であり「心の声」。人物の思考・感情・心理など、表面に表れにくい人間的な「内面」を描き出すために、坂元作品でもいつも大事な箇所で使われてきました。

 たとえば「それでも、生きてゆく」で読まれた深見(永山瑛太)の手紙(投函されることなく木に結ばれる)と、「最高の離婚Special 2014」で、光生(永山瑛太)が結夏(尾野真千子)に宛てた手紙。それぞれのラストは手紙を使ったモノローグで締めくくっています。

 また、「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(以後「いつ恋」)でも、亡くなった母親からの手紙と、その相聞歌にあたる音(有村架純)の手紙は物語のカギになります。手紙やメールという書き言葉でモノローグが語られることで、文学的にも際立った名言がドラマでは多く生まれています。

 映画のモノローグは、絹と麦の人格を借りて坂元が書いたそれぞれの日記がベース。過去のドラマのようにここぞという箇所で効果的に使うのではなく、ほぼメインで使われています。だからときにダイアローグ(対話)よりもモノローグのセリフの方が多い。

 本作はふたりの内省的なモノローグが対話の行間に入り込むことで、まるで壮大な「会話劇」であるかのように仕上がっています。その時突発的に話した口から出た言葉と、当時は言うことができなかった心の声で成り立つ「会話劇」なんです。ふたつがタイムラグなしに折り重なって観客の耳に届くのは、演劇的(特に朗読劇)なおもしろみを感じます。

固有名詞は自分を証明するための記号

 本作を観た人の間で経験を持って語られているのが、結局、「好きが同じだけの恋はうまくいかないよね」ということ。実際にふたりの恋は5年で終わりを迎えます。

 もちろん、自分が好きなことを同じように好きな人に出会えたときの喜びは何物にも替えがたいものです。しかしふたりはそれだけで結びついていたわけではないと思います。カルチャーは最初の取っ掛かりにすぎない。

 それよりも、「お店の人に感じいいなとか、歩幅合わせてくれるなとか」そういうことの方が当たり前に大事であったはずです。多くの固有名詞は人物像を説明する記号にすぎない。だって、本人も気付いてない魅力を発見してしまったときに、人は人を好きになるんですから。

 劇中では固有名詞が目立ってみえますが、普通、若い頃の恋愛を描くのであれば本作のような固有名詞は出てきて当たり前なんです。人は日常会話で大体が固有名詞についての話をしていますから。自分を説明するためのSNSのプロフィールに、好きなカルチャーの固有名詞を羅列させている人は現実にも多いです。

 人は自分のセンスや感性を証明するためにカルチャーを装備します。そうすると何者でもない自分でも、特別な人間になったような錯覚を抱けるからです。それに「これが好き」ということが大事ではなく、自分という特別な存在を肯定するために「これが好きな自分でいること」が大事になってしまうこともあるんです。

 「最高の離婚」ではかつて灯里(真木よう子)が聞いていたJUDY AND MARYの曲に対して、光生(永山瑛太)が悪気なく「何? このくだらない歌」「安っぽい花柄の便座カバーみたいな音楽だ」と伝えたエピソードが出てきます。

「私、何にも言い返さないで、コンビニ行ってくるって言って外に出ました。で、ホントにコンビニ行って、立ち読みして、帰り道思ったんです。もう夢とか見るのやめよう。私はYUKIちゃんにはなれない。凄く平凡で退屈な人間なんだ。大きな憧れとか、そういうの持っちゃいけないんだって」

 誰かにとって生きる力みたいになってるものが、誰かにとっては、便座カバーみたいなものだということは往々にあります。灯里は好きなカルチャーを批判されたからではなく、自分を否定されたから傷つきます。

 「カルテット」では幹生(宮藤官九郎)が真紀(松 たか子)に贈ったお気に入りの詩集が、9ページで止まったままで染みがつき、揚げ句の果てには鍋敷きにされます。そのとき、熱々のパエリアの下に置かれたものは、幹生自身の心でした。

5年という時間は、人を変えてしまうに十分

 映画では2015年から2020年の5年間のふたりの関係性の変化を描いていますが、坂元作品には「描かれなかった5年間」を扱ったドラマがあります。それが「いつ恋」です。

 「いつ恋」は年代や震災などの出来事がはっきり描かれていますが、好きなカルチャーの話題など、20代の移り行く人物描写としての固有名詞が出てこない作品でした。第一部の終わりは2011年3月、そこから震災を境に空白の5年間が横たわり、第二部は2016年1月から始まります。

 オンエア当時、坂口健太郎が「5年という時間は、人を変えてしまうに十分で、人は今に不満があればあるほど、過去を美しく綺麗に見てしまう」とツイートしていました。

 5年あれば環境は変わります。人も変わって当然です。仕事だって家だって、もちろん恋人だって。「いつ恋」はその空白の5年を一切描くことなく、人物像や人間関係の変化で月日の流れを描写していました。木穂子(高畑充希)は練(高良健吾)と別れ、音(有村架純)は朝陽(西島隆弘)は付き合う。それが5年という月日です。何も変わらないということにリアリティはありません。

 ラブストーリーは人がふたりいれば成立ほど単純なものではなく、社会で起きているさまざまなことが作用します。映画の絹と麦があの5年間で資本主義社会に組み込まれていくのは当然で、それによる関係性の変化もある意味当たり前のこと。

 ふたりが「現状維持」に成功し、恋愛から結婚のステージに入ることができたらハッピーエンドを迎えられたかというと、そうでないことを私たちは肌感で知っています。「最高の離婚」でもこんなやりとりがありました。

「無理して合わせたらだめなんだよ。合わせたら死んでいくもん。私があなたの中の好きだったところが、だんだん死んでいくもん。そしたらきっといつか私たちだめになる。お互い嫌いになって傷つけ合うことばかり上手になって。そしていつか思うの。結婚なんてするんじゃなかったって。出会わなければよかったって。それだけは絶対イヤだよ」(「最高の離婚Special 2014」)

2021.03.04(木)
文=綿貫大介