まるで「大河ドラマ」! 狩野家の負けられない戦い

 室町時代の中期に幕府の御用絵師となった狩野家は、血族の堅い結束と、高い技術を持った多数の門弟を抱えることで、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら、時の権力者から高い評価を得、その御用を務めて、画壇を支配してきた。室町中期から江戸時代が終焉を迎えるまで(明治になっても狩野派出身の画家は活躍している)400年近く。それほどの時間を生きながらえた画派は他にない。

<重要文化財> 唐門欄間彫刻(南面頭貫上欄間彫刻西側表) 京都市(元離宮二条城事務所)蔵
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 中でも有名なのは長谷川等伯と激しくぶつかり合った狩野永徳だが、判官贔屓の日本人は、幼い頃から神童の誉れも高く、安土城や聚楽第など大建築の障壁画を次々と任された巨大なゼネコンのごとき狩野派の総帥・永徳より、徒手空拳で彼らに挑んだ等伯の方に感情移入するようだ。だが営々と血と技術をつないでいく中で、一代おきに出現する才能と、激動する時代を生き延びていくためにしたたかな戦略をめぐらせた、狩野家の血と絵をめぐる「大河ドラマ」を知ってしまうと、唸らざるを得ない。

<重要文化財> 二条城二の丸御殿 遠侍二の間 竹林群虎図 京都市(元離宮二条城事務所)蔵
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誰の天下になっても生き残るための作戦とは?

 1590年、永徳が48歳という脂の乗りきった年で亡くなると、集団制作体制を整えた長谷川等伯一門に、豊臣秀吉の夭逝した愛児・鶴松のための寺の障壁画制作を奪取されるなど、狩野派はまさに画壇の下克上の危機に直面する。しかし彼らも伊達に乱世を生き抜いて来たわけではない。永徳の後を継いだ長男・光信は、永徳以前のお家芸のひとつであった大和絵風の細画に回帰すると共に、長谷川派の装飾的な様式まで採り入れて狩野派を改革、時代感覚の変化を読み取って、見事に狩野派を脱皮させた。

 そして関ヶ原の合戦から大坂の陣に至る、未だ権力がどこへ転ぶかわからない微妙な時期、一門は豊臣方に狩野山楽(元は秀吉の家臣で絵の腕を買われて永徳の養子・狩野派一門になった)、徳川家に光信の息子・貞信(夭逝した貞信の後は、光信の弟・孝信の子である探幽)、天皇家に光信の弟・孝信をつけ、天下がどこへ転がっても、最終的に狩野派が生き残ればいい、という凄まじい覚悟の三正面作戦に打って出る。やがて家康が政権を盤石なものとし、徳川についた狩野派が一門の主翼を担うに至って、狩野派は長く活躍した京都から江戸へと拠点を移し、「お乗り換え」を完了させた。二条城における寛永の大改修は、いま1人の天才、探幽(永徳の孫)による、「勝利宣言」のようなプロジェクトだったのだ。

<重要文化財> 二条城二の丸御殿 大広間四の間 松鷹図 京都市(元離宮二条城事務所)蔵
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 狩野派による二条城プロジェクトの白眉といえるのが、大広間四の間の『松鷹図』だ。鋭い眼差しで室内を睥睨する鷹の威風、うねる松の巨木が画面の外、城の屋根まで突き抜けているような迫力を感じさせる。だが実はこの絵は、枠の中にきっちりと松全体を収め、余白をたっぷり取った瀟洒で端麗な探幽の作風とはかなり異なっており、むしろその祖父、永徳的な雄渾さを感じずにはいられないのだ。

 そのため、京都から江戸へ拠点を移し、徳川幕府に仕えた探幽が、桃山の豪壮さをいま一度探究した実験的な作品だとも、永徳の養子でその画風をもっともよく継いだとされる一族の長老、京都に残った「京狩野」のリーダー、狩野山楽の筆になるものではないかとも言われている。さて、実際のところはどうだったのだろう。

 画壇の「華麗なる一族」の間で起こった(かもしれない)、そんなドラマの理由と背景に思いをめぐらせてみるのも、展覧会の楽しみのひとつ。誰か「狩野派サーガ」の大長編小説を、書いてはくれないだろうか。

二条城展
会場 江戸東京博物館
会期 7月28日(土)~9月23日(日)
休館日 月曜日(ただし9月10日、17日は開館)
開館時間 9:30~17:30(土曜日は19:30まで。入館は閉館の30分前まで)
料金 一般1300円
問い合わせ先 03-3626-9974(江戸東京博物館・代表)
URL nijo-castle2012.jp

Column

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2012.08.25(土)