普通の京都観光では寺と神社と御所と離宮と美食とお土産で手一杯のため、「城」に目を向ける人は少ない。そもそも堂々たる天守閣のそびえる、いわゆる「城」は、はんなり京都気分とはそぐわないからだ。
だが京都の「城」として名高い二条城を、修学旅行などで見学した方はご存知のように、かつて『洛中洛外図』に描かれた望楼型の五重天守は18世紀半ばに落雷で焼け落ち、現在の二条城は天守を持たない。
というより、なくていいのだ。そうした軍事的な機能は必要ない。二条城は京都の警護と将軍上洛の際の居館として徳川家康によって造営され、二代将軍秀忠の娘、和子入内、そして後水尾天皇の行幸に際して贅を尽くした行列が行き来した、徳川の威光を天下に示す、壮麗なモニュメントだったのだから。
絵師集団・狩野派が描いた絵の数にびっくり!
1603年、将軍の居城として徳川家康が完成させた二条城は、1626年、三代将軍家光が敷地を大幅に広げ、建物も増築するという「寛永の大改修」によって、現在の姿になった。創建当初の本丸御殿は現存しないが、現在まで奇跡的に残った二の丸御殿は、本丸御殿より規模が大きく、後水尾天皇と家光、大御所秀忠の謁見や、幕末の十五代将軍慶喜による大政奉還の舞台ともなった、重要な建物として知られる。
徳川家の面目を賭けた大イベントに備えて、内部を飾る障壁画を一手に担ったのが、幕府の御用を務める絵師集団・狩野派である。雁行型に連なる諸御殿の襖絵、壁貼付絵、杉戸絵、天井画などなど、描きも描いたり945面。ほか22棟の建物にあるものも合わせれば、1016面という膨大な数に上る。
広間に居並ぶ大名たちが見上げる上段の間の将軍に、あたかも傘をさしかけるように枝を広げる老松の堂々たる枝。あるいは遠侍の間に控える大名たちを威嚇するような豹や虎。一転して、将軍のプライベートな居室は色を控えた水墨画で山水や花鳥の図を描き、部屋の主が寛いですごせるよう配慮するなど、場に応じた演出が見事になされている。この一門を総動員しての大プロジェクトの責任者となったのが、当時まだ20代半ばだった狩野探幽その人であった。
<次のページ> まるで「大河ドラマ」! 狩野家の負けられない戦い
2012.08.25(土)