映像とは違う、演劇だからこその表現がしたい
――ところで、最近映像関係の仕事も増えていると思いますが、その成果って何らかの形で演劇にもフィードバックするものでしょうか?
どうだろう……。具体的にこれがっていうわけじゃないんですが、舞台で演出をする時に映画の時と違うなっていうのは思います。演出をするにあたって、自分がこだわっている部分が浮き彫りになってくるというか。
――こだわっている点というと?
情報ですかね。セリフ以外に俳優の体から出てくる情報をどう増やすかっていうこと。脚本に書かれたセリフがあって、そのセリフと同じ情報を芝居で出しても面白くないんですよ。例えば「それやめてもらってもいいですか!?」っていうセリフを言う時に、いかにも怒っている仕草を俳優さんがするするよりも、ヘラヘラした挙動で「やめてもらってもいいですかね?」みたいに言ってもらう。そうすることで、別の情報が俳優さんの体から出てきて、伝わるものが豊かになるというか。まあ、今の例はちょっとシンプルすぎるんですけど。
――言語以外の情報をどれだけ俳優から引き出せるか?
そうですね。舞台って究極、俳優とセリフがあれば成立すると思っていて。音とか光とか美術とか衣装とか色々な要素があるけど、削ぎ落としていくと最終的に俳優とセリフがあれば、何にもない空間にイメージを立ち上げられる。でも、映画でそれをやるとうまくいかないと思うんですよ。例えば映画で人がカメラ側を向いて喋っているとする。でも、そのショットにはその人以外のものもいっぱい映ってるじゃないですか。背後の街とか空も映るし、視覚情報がセリフと同じような感じで入ってくるんです。だから、映画の中で演劇と同じように俳優の身体の情報量を増やしていくと、情報過多になるんですよね。
――舞台で俳優の身体から情報を発するというと、それを極端な形でやったのが、『三月の5日間』をはじめとする、チェルフィッチュの作品なんでしょうか。
そうですね。僕の言った例はもっと日常的なレヴェルで情報を増やせるかっていうことなんですけど。チェルフィッチュはおそらく日常的な動作とはちょっと離れている。
――あれは一種の振り付けですよね。
でも原理としては一緒だと思います。舞台上で、俳優の身体から出てくる情報を豊かにしていって、そのイメージが観客に迫るようにするっていうことなので。だから、俳優さんにはその人の身体からしか出てこない情報がある気がしていて。この人は喋ってる時はこういう感じで、人といる時はこうでっていうのが分かると、じゃあそれを含めてもっと脚本を書き込もうとか、演出でその情報を過剰に出してもらったりする。そうすると、その人なりの個性や面白さが出てくるんです。その人自身を利用して作品をつくっていくというか。
