「漢字が読めない…」帰国して再びカルチャーショック
――その後、アメリカではなく日本でデビューすることになります。どのようなきっかけがあったのでしょうか?
15歳から25歳という、人格が形成される時期をアメリカで過ごしているので、もちろんアメリカでデビューしたいと思ってました。曲も英語で作っていましたし。そんな中、ひょんなことから、ヤクルトのCM音楽を作る話が舞い込んできたんです。ジミー・スコットという世界的に知られるジャズシンガーが歌う、楽曲を作る企画に応募したら見事受かりまして。
ジミー・スコットってマドンナが「私を感涙させた、唯一の歌手」と賛辞を送っているくらいすごい人なんです。そんな人に自分が作った曲を歌ってもらえて、一緒にレコーディングも出来た。それはもう最高な経験でした。その際に作ったデモテープを、今でもずっとマネージャーをしてくれている方が聞いてくれて、日本に呼んでくれたんです。
当時は今のようにYouTubeやSNSのように自分から発信出来る時代ではないし、誰かに会わないとデビューはできない。それにエージェンシーにも入っていなかったし、マネージャーもいなかったので自分の音楽をいいと言ってくれる人のもとでデビューするのが、一番近道だろうと。それで割り切って日本に帰ってくることになったんです。
――日本に戻ってきたらまたカルチャーショックを受けることが多かったのではないでしょうか。
アメリカでは、とにかく英語を話せるようになりたくてあえて日本語を使ってなかったし、中三までの漢字しか習ってないから、読めない漢字もたくさんあって。お店に「商い中」って書かれているのを見て「つぐない中って何? どういう意味?」って混乱したこともありました。
だから、新聞をとって、新聞に出てきたわからない言葉をノートに書き写して辞書をひくのを、帰国してから2、3年間やっていました。日本語が完璧に喋れるようにならないと、日本語の歌詞なんて書けないじゃない。必死でしたよ。勉強しすぎてレコード会社の人に「歌詞が難しすぎる」って注意されたこともありました(笑)。
――日本に帰国してからも3年ほど、下積み期間があったと聞いています。
暗闇の中を手探りで歩いているような毎日でした。「年をとりすぎている」とか、「ハーフは売れない」って散々言われていたからとにかく必死で。成功すること、評価されることがそのまま自分の価値に直結すると思ってしまっていたので、売れないとダメだって感覚だったんだと思います。
デビュー前、レコード会社から毎週新曲を1曲作ることを課せられたのですが、毎週4曲作って、結局500曲作りました。デビューしてからも、事務所に力があるわけでも、優遇されていたわけでもないから、全国津々浦々のCDショップに行って、インストアライブして手売りして。
