着物産業で得た富を誇示しあった京都の町衆

 1100年以上前に始まった祇園祭ですが、様々な戦乱で一時途絶えます。平安時代の保元、平治の乱もそうですが、何より大きかったのが室町時代の応仁の乱で、30年間も途絶えました。それを復活させたのは、町衆です。町衆といっても単なる住民という意味ではなく、独立した自治権を持ち、警察権まで有していました。 

個人宅や老舗を開放しての逸品の展示は、まさに「拝見させていただく」心持ち。
いかにも京都らしいきちっとした町屋に飾られていました。

 その町衆が1500年に、人目をひく贅をこらした山鉾26基で巡行を行いました。当時、日本一の着物産業の集積地であった鉾町の町衆は、その財力を誇示しあって、山鉾を内容外観ともに豪華絢爛なものにしてゆきます。安土桃山から江戸時代にかけては、貿易によって舶来のゴブラン織りが入ってくると、競って「たれ胴懸」や「見送り」に用いられるようになります。それぞれの山鉾の美術的価値が非常に高く、「動く美術館」とも言われるのは、そういった背景があるからです。

阿修羅像の静謐な雰囲気。奥の屏風は明治の日本画家、森寛斎の「四季工作の図」。左側の屏風は、初代龍村平蔵作の織物を屏風に仕立てたもの。
山鉾連合会理事長吉田孝次郎宅「無名舎」の見事な飾り。

2015.07.11(土)
文・撮影=小林禎弘