現代演出のオペラの醍醐味

 そんな現代的な演出が、ワーグナーが19世紀なかばに作曲した音楽やリブレット(台本)と見事に噛み合って、歌詞なども改変されていないにもかかわらず、舞台上の「現代」と完璧に調和するところが現代演出のオペラの醍醐味だ。

 この『タンホイザー』2幕目では、舞台真ん中で古典的な『タンホイザー』が上演されているが、舞台上方に映し出されるビデオはライブビデオになっていて、舞台裏や劇場の外のリアルタイム映像が流れ続ける。

 そして、まさに観客たちがいるバイロイト祝祭劇場にヴェーヌス一行が忍び込み、タンホイザーを奪還しようと試みる様子や警備員や警察車両が追いかける様子、そして外の正面バルコニーにハシゴをかけて劇場に侵入するシーンが「生放送」されるのだが、観客は2幕目を終えて外に出ると驚く。本当にバルコニーにハシゴがかけられ、ヴェーヌス一行が掲げた、ワーグナーがドレスデン蜂起の際に残した「自由」を希求する言葉が記された旗がはためいているのだ。細部まで凝り尽くされた演出は圧巻だった。

幕間の食事と、開演を告げるカルテット

 なにがともあれ演目それ自体の評価や内容については専門家に委ねるべきだろう。僕はワーグナーの専門家でもなく一介の作家なので、バイロイトならではの「幕間の時間のたのしみ」についても書いておきたいと思う。

 通常のオペラ公演では1幕ごとに挟まれる休憩時間、すなわちインターバルは長くて30分という場合が多い。しかし、バイロイト音楽祭ではワーグナー作品が長大でオーケストラや歌手陣にも十分な休憩時間が必要なのと、観客にも固まってしまった腰や背中をゆうゆうと伸ばしてもらうために、幕間の休憩時間は1時間設けられている。

 この1時間の過ごし方は人それぞれなのだが、ほとんどの作品が16時に開演し、インターバルを挟んで終演が21時や22時を過ぎるので、僕や母をはじめ、多くの観客がこのインターバルの時間に食事を取る。

 会場にはいくつかレストランやカフェが用意されていて、ブッフェスタイルのカジュアルなものから、事前にテーブルを予約しておく必要のあるややフォーマルな場所まである。母も僕も幕間にしっかり食べておきたいので、毎年テーブルを予約するようにしている。

 ワーグナーの作品は基本的に3幕構成なので、1幕目のあとのインターバルで前菜を食べ、2幕目のインターバルでメインディッシュとデザートを食べる、というのが基本パターンだ。

 食事を終え、観客たちがめいめいにシャンパングラスを傾ける劇場前の外の広場へ向かうと、多くの人々が正面バルコニーの前に集っている。これには理由がある。他の歌劇場ではベルやアナウンスなどで「まもなく開演です」と伝えることが多いが、バイロイト音楽祭はここも凝りまくっている。

 開演15分前、開演10分前、開演5分前にそれぞれ、正面バルコニーに管楽器のカルテットが現れ、演目の主要な動機(ライトモチーフ)を演奏するのだ。たとえば『リング』第1夜の3幕目「ヴァルキューレ」なら、あの有名な「ヴァルキューレの騎行」が演奏される。そして『タンホイザー』1幕目の前は、誰もが知る「タンホイザー序曲」の旋律だ。

 今回のバイロイトは、コロナを挟んで僕にとっては4年ぶりとなったが、初日の「ラインの黄金」の開演前、バルコニーに立つカルテットが「指環の動機」を奏でるのを見上げながら「ああ、帰って来たなあ」と胸が熱くなった。

今後バイロイト音楽祭に訪れる方のために

 さて、末筆にはなるが、今後バイロイト音楽祭に訪れる方のためにひとつ大事なことを書いておかねばならない。

 病的完璧主義者のワーグナーが自ら作り上げ、自身の「完璧な作品」に「完璧に没入させるための劇場」であるバイロイト祝祭劇場には、当然ながら字幕装置がない。日本はもちろん、世界各国のあらゆるオペラハウスにはいまや英語や各国語の字幕装置が設置されていることがほとんどだが、バイロイトにはそれがない。バイロイト音楽祭に来る者がワーグナーの主要作品の内容をわかっていないはずがない、ということでもあるし、字幕ばかりを見てしまって舞台の重要なシーンを見逃してしまうようなことを防ぐためでもあろう。

 大学生当時、初めて訪れる前に「やべえ、俺ドイツ語全然わからねえ!」と焦った。ただ、字幕が出ないのを事前に母から聞き、演目の内容をしっかり予習していたので、いざ観劇してみるとまったく問題はないどころか、むしろ字幕装置がないことで完全に劇中世界にトリップできたのが最高だった。ワーグナー作品に用いられるドイツ語の主要単語がかなりわかるようになってきた今では、まったく苦労なく作品を観られるようになった。

 病的な完璧主義者であるワーグナーの理想を体現した「バイロイト音楽祭」に挑むにあたっては、観客もまた、病的な完璧主義者にならないといけないのかもしれない。

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