劇場自体が「巨大な楽器」

 また、オーケストラピットが舞台下にあることで、通常のオペラハウスよりもオーケストラの音が「混ざり合う」効果が生まれる。バイロイト祝祭劇場の独特な形のオーケストラピットでは、通常のオーケストラとは楽器配置が異なり、通常、舞台に向かって左側に配置される第一バイオリンが右側に、第二バイオリンが左側に配置される。またワーグナーの音楽に多用されるチューバやホルンなどの管楽器は演目ごとに(あるいは上演中に)位置が変わったり動いたりする。

 むき出しのオーケストラピットの場合、第一バイオリンが奏でる主旋律はどうしても左側から聞こえてくるが、バイロイト祝祭劇場では客席とピットを隔てるアール状の覆いのわずかな隙間から、あらゆる楽器の音が混ざった状態で響きわたる。どの楽器の音がどこから鳴っているのか、観客にはわからない。すべての楽器の音が淡く混ざり合って聞こえるからだ。

 その音響を助けているのが、劇場の独特な形状である。上空からの写真で観ると明らかなのだが、バイロイト祝祭劇場はバイオリンやチェロなどの弦楽器にそっくりな形をしている。劇場自体が「巨大な楽器」になっている。

“チケット26年待ち”の老婦人の涙

 また、バイロイト祝祭劇場の観客席の椅子は、クッションが入っていない。正直すこぶる座り心地が悪く、演奏時間の長いワーグナー作品ゆえ、観劇後は腰が痛くてたまらない。椅子にクッションがないのは予算不足のせいだとか、音響のためだとか、あるいは座り心地を悪くして観客を寝かせないためだとか、これまた諸説ある。しかし結果として、このクッションのない椅子によって、クッションが音を吸収してしまうのを防ぎ、観客席の空間すべてが反響板として機能している。

 バイロイト祝祭劇場では、よく「音が上からも横からも下からも聞こえる」という人がいる。指揮者の大友直人さんもそうおっしゃっていた。僕自身も、いつもバイロイトで観劇していると、オーケストラの音や歌手の声が思わぬ方向から聞こえてくるから驚くことが多い。

 これだけストイックで特殊な「バイロイト音楽祭」に行くことは、ワグネリアンの間で「バイロイト詣で」と呼ばれるほど特別な機会である。というのもこの音楽祭、「世界でもっともチケットが取れないフェス」なのだ。代々ワーグナー家の末裔が総監督を務め運営してきた「バイロイト音楽祭」は、かつてはそのチケットのほとんどがワーグナー家や有力者とコネのある人々の手に渡ってしまい、一般のワグネリアンはひたすら毎年申し込みを続け、抽選に当たるのを何年も待つしかなかった。

 かくいう僕もかつては、ワーグナー家と交流のある友人にチケットを手配してもらっていた。2009年のバイロイトで『トリスタンとイゾルデ』を観ていた時、まだ1幕目だというのに隣席の老婦人が涙を流していた。決して感動する場面ではない。幕間のカーテンコールの際、老婦人が興奮して拍手をしながら僕に語りかけてきた。「やっとここに来られたの! 何年待ったと思う? 26年よ!」と言って彼女は涙を拭っていた。「コネ枠」で訪れることができていた僕は、老婦人に対して申し訳ないような、名状しがたい気持ちを抱いたのを覚えている。

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