ラジオパーソナリティ、そして通訳・翻訳業でも活躍中のキニマンス塚本ニキさん。初の著書『世界をちょっとよくするために知っておきたい英語100』(Gakken)が注目を集めている。後篇では、“箱入り娘”だった幼少期から今にいたるまでを聞いた。
スピーチやプレゼンの授業は、死ぬほど嫌な時間でした

――大学時代はニュージーランドで過ごされていましたが、社会学、ジェンダー、映像学を学ばれたそうですね。十代の頃のニキさんって、どんな人でしたか。
ニキ 大学に入学して、ようやく人前で話せるようになったんです。それまでは滑舌がよくなかったこともあり、あがり症で。向こうでは小学校からスピーチやプレゼンの授業があるんですけど、死ぬほど嫌な時間でした。
――それが今やラジオや動画チャンネルのパーソナリティ。大学で何が変わったんでしょう。
ニキ 映像制作に興味があったので、サークルで短編映画やコメディ動画を作ってたんです。仲間と苦労して作ったものをいろんな人に見てほしいという思いが原動力になって、積極的に人前で発言や発表ができるようになった。そこから……表現欲のようなものも湧いてきたし、「責任と自由」を実感できるようにもなりました。それまでわりと私、箱入り娘だったんですよ(笑)。
――箱入り娘って英語でなんて言うんだろう(笑)。ちなみに、ごきょうだいは?
ニキ 日本に妹がひとりと、異母姉妹の姉がニュージーランドにいます。
――お母さんが日本人なんですよね。小さい頃、「お姉ちゃんらしくしなさい」なんて言われたこと、ありましたか。
ニキ 物心ついたときからお姉ちゃんをやっていた感じです。3歳年下の妹はダウン症があるんですが、周りからいろいろ言われたり見られたりするのはずっと当たり前で。父親は父親で日本では「ガイジンだ!」と言われ、ニュージーランドでは母が「アジア人」として見られて。そして私は“あいのこ”として居たわけです。家族間でも、“橋渡し”的なことをずっとやってきた感覚があります。
――“あいのこ”という言葉も、差別的にとらえる人、使うべきでないとする人もいますね。
ニキ 最近、Xで「あいのこは差別的表現だから使わないでほしい」とリプライをもらったことがありました。その人はミックスルーツのお子さんがいる日本人だったんですが、私は当事者として、自分の呼称は自分で決める権利があるはずと意見交換をして、最後は意見が違うまま和解できた気がします。
――そこで「いい・悪い」を決着させる必要もないですよね。ご家庭での会話は主に英語だったのですか。
ニキ 母親とは日本語、父親とは英語で話し、夫婦間では英語という環境でした。子どもの頃から読書好きで、日本の親戚や友人が送ってくれた本をたくさん読んでいたんですが、読めない漢字をスルーすることは多かったので、今でもたまに漢字の読み方をしくじります。たとえば歩合制は割と最近まで「ほごうせい」だと思っていました(笑)。
――私はずっと「七夕」を「たなばた」と読むの、納得いってないです(笑)。日本語の口頭表現では、苦労はなかったのですか?
ニキ いえ、23歳で日本に戻ってきて、最初の1年はホテルのレストランでホールスタッフのバイトをしていたんですが、ちゃんと敬語で接客したくても、慣れない言葉遣いに苦労しました。でもそこで「ハーフだから難しいよねー」と言われるのは絶対にいやだったんですよ。だから勉強に火がついて。
――向学心のガソリンになったんですね、すばらしい。滑舌が悪かったと先ほど言われてましたが、現在はまったく感じさせませんね。
ニキ 小学校高学年のとき、スピーチセラピーに通いました。「th」の発音とか、「r」と「l」の違いが甘かったんです、9歳まで日本にいたので、このあたりは自然と身についてこない。詩の朗読や発声練習もそのときいっぱいしました。
――克服されて、自信につながりましたか。
ニキ 自信というか、「周囲と違う要素」がひとつ減ったのがうれしかったです。
――なるほど。そして大学では映像制作ら社会学も学ぶようになって、将来へのビジョンができていったそうですね。
ニキ 最初はイメージ通りの世界観を作り上げることに意欲を感じていたんですが、それは結局作り物のお話で、現実の世界では環境問題や戦争、貧困の問題は変わらずにある。戦争が起きるのはなぜかと考えたら、兵器を製造する会社があって、そこに投資する銀行があって……と考えたとき、私はなるたけ戦争や社会問題に加担したくない、環境破壊や格差を生み出す一員にもなりたくない、と考えるようになりました。将来的にはどこかのNPOかNGOで働きたいと漠然と思いつつ、アルバイト生活を続けていたんです。
2025.09.03(水)
文=白央篤司
撮影=平松市聖