「血」という言葉の呪い

 こうした呪いをかけるものは、なにも万菊と竹野だけではない。喜久雄に魅せられて歌舞伎の世界に引き入れた半二郎ですら、息子の俊介と喜久雄が一緒に「二人道成寺」を演じる際、俊介に対しては「何があってもあんたの血が守ってくれる」と語り掛けるが、喜久雄に対しては、稽古を一日も休まなかったことを指摘し、「あんたがふりを忘れても体がちゃんと踊ってくれる」と声をかけるのだ。

 後になって考えてみると、「血が守る」ことよりも、自分の体に日々の稽古が血肉となっていることを指摘してくれるほうが、確固たる自信になるのではないかと思えてしまう。半二郎は喜久雄に決して呪いをかけようとしたのではないようにも思える。しかし、自分にないものを求める気持ちの大きさから、自分で自分に呪いをかけてしまうことは往々にして存在する。

 半二郎が「血」という言葉にさほどの意味をそのときは込めていなかったのではないかと思うのは、その後も、自分の代役を息子ではなく喜久雄にやらせたり、半二郎の名を喜久雄に継がせ、自分は半二郎から白虎を襲名すると決めたりするからである。

 しかし、自分がその襲名披露の舞台上で病のために倒れたときには、やはり実の息子の名前を呼んでしまうのは、皮肉なものであるし、もっと言えば、半二郎の名前は継がなかったものの、父が倒れた病と同じ病で俊介が倒れてしまうということには、「血」というものの皮肉さを感じさせるものがあった。

台本になかった「どこ見てたんやろな」

 こうして、呪いをかけられたことで、歌舞伎のためなら何もかも差し出すと悪魔との契約までしてしまう喜久雄であったが、その契約が祟ったのか、しばらく表舞台から去り、歌舞伎役者・吾妻千五郎の娘であり、歌舞伎界の「血」を持つ彰子(森七菜)とともに地方巡業の日々を送る。このとき、彰子と喜久雄の間に血の通った会話もなければ、視線があうこともないのが印象的だ。

 巡業中に観客とトラブルを起こした喜久雄が、屋上で途方にくれている際、彰子が喜久雄に「どこを見ているの?」と言ったのが忘れられない。彰子が喜久雄をちゃんと見ていないと言えない言葉であるからだ。彼女がこの数年間、どんな思いで喜久雄を支えて来たのかと思うとせつなかった。

 その言葉を受けた喜久雄は「どこ見てたんやろな」と涙を流しながらも、しかしどこかふっきれた様子を見せる。このセリフは、台本にあったものではなく、吉沢亮の口から自然と出てきたものだというが、このシーンがあったことで、よりこの映画が「見る」「見られる」ことが軸にあるように思えたのであった。

2025.06.28(土)
文=西森路代