歌舞伎の「血」を継がない者同士の継承
直後、喜久雄は万菊に呼び出される。その知らせを持ってきたのは、最初は彼を凝視していなかった竹野であった。竹野は喜久雄の姿を目で凝視するということはなかったが、その代り、彼の行動や芸の変化など、目には見えない部分を見ていた人だと思う。
竹野は万菊のいる粗末な宿まで喜久雄を連れていく。殺風景な一室で過ごしている万菊は、それでも何か満足しているような様子を見せていた。
「ここには美しいものが一つもないだろ。妙に落ち着くんだよ。なんだかほっとすんのよ。もう良いんだよって誰かに言ってもらえたみたいでさ」と喜久雄に話しかける。万菊は喜久雄に初めてあったとき、その美しさを称え、同時にその美しさに苦しめられることもあると告げたが、それは自分と重ね合わせていた部分があったのだろう。

万菊は、自分の使っていた扇子を喜久雄に渡し、喜久雄は踊る。これは、メタファーとして、何かを引き継ぐということが色濃く出ている場面だろう。万菊もまた、彼の晩年からしても、歌舞伎界の「血」を継がない人であり、「血」を継がない者同士の継承がここで行われているのを見た。
「血」に関する「呪い」など、この映画の中には、本当は存在していなかったのかもしれない。
喜久雄自身の「血」
この映画にはほかにも喜久雄のことを深く見ていた人はたくさんいるが、もちろん少年時代から共に歩んだ俊介もそのひとりであった。また、最後に現れた綾乃(瀧内公美)もそうだろう。彼女は父親の喜久雄とほとんど交流せぬまま育ち、雑誌のカメラマンとして、人間国宝となった歌舞伎役者の父と再会する。

父親から愛情を受けられなかったことに対する複雑な思いはありながらも、父の芸に対しては「なんやお正月迎えたような、ええこと起こりそうな、なんもかも忘れて、こっちおいでって誘われるような、見たこともないとこ、連れてかれるような、そんな気持ちになって、気ぃいつたらめいっぱい拍手してた」「お父ちゃん、ほんまに日本一の歌舞伎役者にならはったね」と声をかけるのだ。
映画の中には、喜久雄を「見て」のさまざまな賞賛があったが、この率直な綾乃の賞賛がもっとも喜久雄の人生を「祝福」しているように思えた。
2025.06.28(土)
文=西森路代